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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-1972~1975

訓読

1972
野辺(のへ)見ればなでしこの花咲きにけり我(あ)が待つ秋は近づくらしも
1973
吾妹子(わぎもこ)に楝(あふち)の花は散り過ぎず今咲ける如(ごと)ありこせぬかも
1974
春日野(かすがの)の藤は散りにて何をかもみ狩(かり)の人の折りてかざさむ
1975
時ならず玉をぞ貫(ぬ)ける卯(う)の花の五月(さつき)を待たば久しくあるべみ

意味

〈1972〉
 野を見れば、ナデシコが一面に咲いている。私が待ちに待った秋が近づいてきたようだ。
〈1973〉
 彼女に逢うまで、アウチの花は散ってしまわないで、今まさに咲いているようにあってくれないだろうか。
〈1974〉
 春日野の藤の花はとっくに散ってしまい、薬狩の大宮人たちは、いったい何の花を折り取って髪にかざせばいいのだろう。
〈1975〉
 まだその時期ではないのに、私は玉を緒に貫いたことだ。卯の花が咲く五月を待っていると、とても待ち遠しくて仕方ないので。

鑑賞

 「花を詠む」作者未詳歌4首。1972の「なでしこ」の、ここの原文「瞿麦」は漢籍による表記で、その実が蕎麦に似ていることによる文字。秋の七草の一つであり、その可憐な花は、同時に、愛情やいとおしさの象徴としても機能しますが、本歌では恋情よりも季節感が前面に出ています。結句の「我が待つ秋は近づくらしも」は、個人的願望と自然の変化とが一致する喜びを表しています。「我が待つ」とあることで、秋が単なる季節ではなく、作者にとって特別な意味をもつ時季であることが示唆されますが、その内容は具体化されず、余情として残されています。「らしも」という推定表現は、確信に近い実感を柔らかく言い表す働きを持っています。

 
1973の「吾妹子に」は、逢ふと続き「楝(あふち)」にかかる枕詞。「楝」は、落葉高木の栴檀(せんだん)の木で、4、5月頃に薄紫色の可憐な花が咲きます。やがて風に散りやすい花として知られ、その短命さがしばしば無常の象徴となります。「今咲ける如」は、今まさに咲いているかのように。「ありこせぬかも」の「こせ」は、~してくれる意の補助動詞「こす」の未然形。「ぬかも」は、願望。花の無常を前にした恋心の抵抗を、穏やかな祈願の形で表現した歌です。

 
1974の「春日野」は、奈良市の東方、奈良朝の官人たちが行楽の地として好んだ所。藤原氏を氏神とする春日大社があり、今でも巫女たちが藤の花を髪飾りにして神に仕えています。「藤」は春から初夏にかけて咲く代表的な花であり、長く垂れ下がる花房は、豊かさや華やぎを象徴する存在です。「何をかも」という疑問表現には、実際の選択肢を問う以上に、失われたものの大きさへの嘆きが込められています。「御狩」は、5月5日に行われた薬狩のことで、春日野での成年式でもあったと見る説があります。本来であれば、御狩に参加する人々は、春日野の藤を折り取り、鬘として身につけたであろう。しかし、その藤が散ってしまった今、代わりとなる花を見出せないという感覚が、作者の惜別の情を強めています。

 
1975の「時ならず」は、本来なすべき時ではないこと、すなわち適切な季節や機会を待たずに行ってしまったことを示す語で、ここには、焦りや逸(はや)りの感情、あるいは抑えきれぬ思いが背景として想定されます。「玉をぞ貫ける」は、花を糸に通して玉飾りのようにする行為で、5月5日の節供の薬玉を連想して行ったもの。「卯の花」は、旧暦4月の卯月に咲くのでこの名が付いた、あるいは、卯の花が咲く月なので「卯月」となったともいわれます。なお、上掲の解釈は主格を作者としていますが、卯の花を主格とする見方もあります。「久しくあるべみ」の「べみ」は「べし」のミ語法で、待ち遠しいだろうから。
 


さき(崎・咲き・幸)

 サキは、漢字を宛てれば「先」「前」「崎」などさまざまだが、原義としては、あるものが外側の世界に向かって突き出たその先端をいう。外側の世界との接触の場であり、外側の世界の霊威を真っ先に受感する場でもある。

 この意味のサキは、「崎」がいちばんわかりやすい。陸地が海に向かって突き出たところが崎である。崎は海の彼方からやって来る異界の霊威が真っ先に依り憑く場所とされた。異界の霊威は神そのものとも考えられたから、崎の突端にはそうした神を祀る社が設けられていることが多い。このような崎は、一般には「み崎(岬)」と呼ばれるが、ミは聖性を示す接頭辞だから、そこが神の支配する領域であることを示す。み崎は、異界の霊威の依り憑く場であるとともに、異界へ向かう場所ともされた。

 異界の霊威が依り憑く場所がサキだが、それを動詞化したのが「咲く」である。動詞「咲く」も、崎と同様、語の基底には、神を迎え、神と交わる意がある。この「咲く」は、枝のサキ(先端)に季節の霊威が宿り、その霊威の発動によって花が開くことを意味する。「花」もハナ(端・鼻)であり、サキと同様、ものの先端を意味する。み崎(岬)のように海に突き出た地形を「・・・鼻」と呼ぶ例もある。動物の鼻も、顔の中央から突き出ているからハナと呼ばれる。「花」も植物の先端に「咲く」ものゆえ、ハナと呼ばれた。

 花が咲くところには、霊威がしきりに発動している。その霊威の発動している状態、霊威の充ち満ちている状態を、さかり(盛り」といった。この「盛り」と同根と見てよいのが動詞「栄ゆ」である。「咲く」が花に宿る霊威の顕著な発動を意味したように、「栄ゆ」もそこに宿る霊威や生命力が充実した力を発揮して、そのさまが外部に現れ出ている状態を意味する。

 「栄ゆ」と同根で、やはり霊威の盛んな発動を意味する言葉にサキハフ(幸はふ)がある。サキハフのサキは「咲き」に重なる。動詞サク(咲く)の連用形名詞だが、この場合は用字としてしばしば「幸」が用いられる。ハフは「延ふ」で、ニギハフ(賑はふ)などのハフと同じく、ある力が周囲に向かって水平的に広がるさまを示す。空間全体に霊威が及んで、満ち足りた状態になることを意味する。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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