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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-1978~1982

訓読

1978
橘(たちばな)の花散る里に通ひなば山霍公鳥(やまほととぎす)響(とよ)もさむかも
1979
春さればすがるなす野の霍公鳥(ほととぎす)ほとほと妹(いも)に逢はず来(き)にけり
1980
五月山(さつきやま)花橘(はなたちばな)に霍公鳥(ほととぎす)隠(こも)らふ時に逢へる君かも
1981
霍公鳥(ほととぎす)来(き)鳴く五月(さつき)の短夜(みじかよ)もひとりし寝(ぬ)れば明かしかねつも
1982
晩蝉(ひぐらし)は時と鳴けども恋(こ)ふるにし手弱女(たわやめ)われは時わかず泣く

意味

〈1978〉
 橘の花が咲いて散る里に通って行ったなら、山ホトトギスの鳴く声が響き渡るだろうか。
〈1979〉
 春になるとすがるが羽音を立てて飛び交う野のホトトギス、その名のようにほとんど妻に逢えずに帰って来たことだ。
〈1980〉
 五月の山に咲く橘の花陰にホトトギスがこもっているように、家の中に籠っていたら、ひょっこりあなたが逢いに来て下さいました。
〈1981〉
 ホトトギスが鳴き立てる短夜の五月だけれども、一人で寂しく寝ているとなかなか夜明けにならない。
〈1982〉
 ヒグラシは悲しく鳴くといっても時を定めていますが、恋している手弱女の私は、時に関係なく泣いています。

鑑賞

 作者未詳歌5首。1978は比喩歌。表面上は橘の花が散る里へ通うことを想定し、その結果として山霍公鳥の鳴き声がいよいよ響き渡るであろうと詠んだ一首ですが、「橘の花散る里」を女の住む里に喩え、「山霍公鳥響もす」を人々が警戒して噂することに喩えています。つまり、「恋人のいる里へ通って行ったなら、周囲の人たちが警戒して噂するだろうか」と言っています。窪田空穂は、「譬喩が美しく、無理のないものである」と述べています。

 1979~1981は「鳥に寄せる」歌。
1979の「春されば」は、春になると。「すがる」は、ジガバチの古名。腰が細く端正な蜂で、美女の形容にも用いられます。「なす」は「鳴らす」の古語で、ここは羽音を立てる意。上3句は、霍公鳥のホトの同音反復で「ほとほと」を導く序詞。「ほとほと」は、ほとんど。妹の家へ通って行ったものの、何らかの事情で、逢うか逢わないかのあっけない状態で帰って来ての男の嘆きの歌とされます。

 
1980の「五月山」は、5月の頃の山。上3句は「隠らふ」を導く譬喩式序詞。「隠らふ」は「隠る」の継続態。「逢へる君かも」は、驚きと喜びを含む詠嘆であり、「まさにこの時に、あなたに逢えたことよ」という感慨が率直に表現されています。「かも」は、現実でありながら、なお信じがたい思いを含み、これまでの不遇や待機の時間が長かったことを暗示しています。相手を思いながら独りふさいで家にいる時に、見計らったかのように訪れて来てくれた男に感謝する歌とされます。

 
1981の「五月の短夜」は、新暦の6月頃の、日の入りが遅く夜が短く感じられる季節を指します。ホトトギスの声を聞きながら、一人寝の寂しさと、短夜の明けるのが待ち遠しいような明けてほしくないような、複雑な思いを詠んでおり、ホトトギスの声は、これまでの歌群と同様、恋情や思慕を呼び覚ます存在として機能しており、夜の静けさの中でいっそう鋭く心に響いているようです。

 
1982は「蝉(ひぐらし)に寄せる」歌。「時と」は、その時節、鳴くべき時として。古来、ヒグラシは美しい鳴き声の蝉として愛されてきました。歌にあるように、ヒグラシが鳴く時間帯は基本的に早朝または夕方であり、あのカナカナカナカナ・・・とよく響く鳴き声には、涼感と共に、もの悲しさを感じさせられます。ここでも、恋に悩む女が、ヒグラシの鳴く声に刺激されて悲しみを深めています。「恋ふるにし」の「し」は、強意の副助詞。原文「於戀」で、コヒシクニと訓む説、他の本の原文「我戀」をワガコフルと訓む説、また「我」は「獨」の草体からの誤字と見て、カタコヒニと訓むなどの説があります。「手弱女」は、しなやかでか弱い様子の女性のこと。ほかに、しなやかで優美な女性、たおやかな女の意もあり、歌の優美で女性的な風情を「たをやめぶり」ともいいます。「時わかず泣く」は、時を分かたずいつも泣いている意。

 本歌においては、自然は人の感情を慰める存在ではなく、むしろ対照項として機能しており、ヒグラシの鳴き声が整然としているからこそ、作者自身の乱れた心情がいっそう際立つ構図となっています。恋に沈む人間の感情が、自然の秩序とは異なる次元にあることを、ヒグラシとの対比によって鋭く描き出した作品であり、抑制の効いた語り口の中に、止めることのできない涙と恋慕の深さが凝縮されています。
 


こもる(隠る)

 コモルとは、閉じられた空間の内にあって、外部との交通が断たれている状態、またそれを断つ行為をいう。『万葉集』の訓表記では、主に「隠」が用いられている。そこで、カクル・カクスとの違いが問題になる。コモルは、周囲と絶対的に隔絶する意であるのに対し、カクル・カクスは、単に特定の視点から見えなくなる、見えなくする意であり、そこに明瞭な違いがある。

 コモルことで周囲との交通が断たれると、互いに隔絶された二つの空間が形成される。コモリの空間は、周囲の日常的空間から遮断された非日常的空間=異界を形成することになる。コモリの空間は、神側のものと幻想され、そこは一種の聖空間として意識されることになる。聖空間へのコモリは、魂=生命力を再生させる場として理解されていたらしい。

 『万葉集』には、「春」に接続する「冬隠(ふゆこも)り」という枕詞がある。生命が死に絶える季節が「冬」だが、そうした中でも、生命を再生、復活させるための準備がひそかに行われている。「冬隠り」は、それを意味する。「冬」の語源は、霊力が増殖する意の「植(ふ)ゆ」であろう。一方、増殖した霊力が、隅々まで一気に広がる意の「張る」が「春」の語源になる。

~『万葉語誌』から引用

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『万葉集』に詠まれた虫

ヒグラシ、セミ ・・・10首
コオロギ ・・・7首
カイコ  ・・・4首
ジガバチ ・・・2首
ハエ   ・・・2首
トンボ  ・・・1首
ホタル  ・・・1首
ガ    ・・・1首
クモ   ・・・1首 

 
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