| 訓読 |
1988
鴬(うぐひす)の通(かよ)ふ垣根(かきね)の卯(う)の花の憂(う)きことあれや君が来まさぬ
1989
卯(う)の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思(かたもひ)にして
1990
我(わ)れこそば憎くもあらめ我(わ)がやどの花橘(はなたちばな)を見には来(こ)じとや
1991
霍公鳥(ほととぎす)来鳴(きな)き響(とよ)もす岡辺(をかへ)なる藤波(ふぢなみ)見には君は来(こ)じとや
1992
隠(こも)りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出(で)よ朝(あさ)な朝(さ)な見む
| 意味 |
〈1988〉
ウグイスの通ってくる垣根に咲く卯の花ではないが、うっとうしいことでもあるのだろうか、あの方はちっとも来て下さらない。
〈1989〉
卯の花の咲くようには、心を開いてくれないあの人に、ずっと恋い続けるなのだろうか、片思いのままで。
〈1990〉
この私こそが憎いとお思いでしょうが、だからといって、我が家の庭の橘の花さえ見にいらっしゃらないというのですか。
〈1991〉
ホトトギスが来て鳴き立てている、その岡の辺に咲いている藤の花を見には、あなたはいらっしゃらないというのですか。
〈1992〉
人目を忍んで心ひそかに恋続けるのはつらいものです。せめて、なでしこの花になって我が家の庭に咲き出てください。そうすれば朝ごとに見ることができますのに。
| 鑑賞 |
「花に寄せる」作者未詳歌5首。1988の「鴬の通ふ垣根」は、生命の気配に満ちた空間であり、鴬が「通ふ」という動詞は、繰り返し訪れること、途切れぬ往来を暗示しており、垣根という半ば閉じ、半ば開かれた場所設定も、人の訪れを待つ心理とよく響き合っています。上3句は、作者(女)の家の実景であると共に、「憂き」を導く同音反復式序詞。「憂きことあれや」の「憂きこと」は、うっとうしいこと、気が進まないこと、つまり自分が相手の意に染まぬ点があること。「あれや」は「あればや」の意で、「や」は疑問的反語。「君が来まさぬ」の「君」は夫で、「来まさぬ」は「来ぬ」の敬語。相手を責めるのではなく、事情を案じる姿勢が前面に出ており、恋情の深さと優しさがにじんでいます。
1989の「卯の花」は、「卯」に「憂」を掛けているとも言います。「咲くとはなしにある人」は、恋の実らない相手の意。窪田空穂は、いかにもかすかな言い方で、しかし心の明らかなもので、巧みであると評しています。「恋ひや渡らむ」の「や」は、反語的疑問の係りで、「このまま恋い続けることになるのだろうか」という自問、「渡らむ」は、時間をかけて途切れなく続くことを示し、恋が一過性のものではなく、長期にわたる苦悩であることを暗示しています。「片思にして」は、結句として強い限定を与える語であり、恋が相互的でないこと、応答の見込みがないことを静かに言い切っています。感情を激しく吐露するのではなく、状況を受け入れつつ嘆く姿勢に、万葉的抑制美が表れているとされます。男女どちらの歌とも取れ、諸説、半々に分かれます。
花が「卯の花」と呼ばれるウツギは、日本と中国に分布するアジサイ科の落葉低木です。 花が旧暦の4月「卯月」に咲くのでその名が付いたと言われる一方、卯の花が咲く季節だから旧暦の4月を卯月と言うようになったとする説もあり、どちらが本当か分かりません。ウツギは漢字で「空木」と書き、茎が中空なのでこの字が当てられています。
1990・1991は、足を遠くしている夫に妻が贈った歌。1990の「我れこそば憎くもあらめ」の「こそば~あらめ」は逆接条件で、自分が憎い存在であるからだろうか、の意。「花橘」は、花の咲いている橘の称。「来じとや」の「とや」は、怨みや怒りではなく、相手の意中を推測する語法。「や」の反語性から、そんなつもりではあるまいに、の余意が含まれています。本歌では、「我れ」と「我がやど」が繰り返され、語り手の側に視点が強く固定されています。これは、相手の事情を推し量りつつも、結局は自分に回帰する思考の循環を示しており、待つ恋の心理的閉塞感をよく表しているものです。
1991の「藤波」は、藤の花房が風に揺れるさまを波に喩えた語。藤は春から初夏にかけての花で、垂れ下がる房の連なりが、連続性や盛期を象徴しています。結句の「見には君は来じとや」によって、歌の調子は一転し、「これほどの景を見に、あなたは来てはくださらないのだろうか」という反語的疑問は、期待が裏切られたことへの嘆きであるものの、相手を直接責める語調ではありません。前歌同様に万葉的抑制が認められる歌ですが、前歌よりは婉曲な訴え方になっています。
1992の「隠りのみ」は、秘密にばかりして。家に引き籠っている意にも取れます。「朝な朝な」は、毎朝。「な」は「朝な夕な」「「夜な夜な」のような時間を表す語の並列形に付いて副詞的用法を作る接尾語。恋心が一時的な吐露ではなく、日々確かめ、味わいたい持続的なものとして捉えられていることを示しています。なお、上掲の解釈は女の歌としましたが、男の立場から、関係を結んでいる女がいつまでも母に秘密にしているのに気を揉み、なでしこの花のように咲き出て母に打ち明けよ、そうして毎朝見るように逢おう、と命じたものとする解釈もあります。

枕詞と序詞
枕詞は和歌で使われる修辞技法の一つで、『万葉集』に多く見られます。ふつうは5音からなり、それぞれが決まった語について、語調や意味を整えたりします。ただし、枕詞自体は、語源や意味がわからないものが殆どです。
序詞(じょことば)は和歌の修辞法の一つで、表現効果を高めるために譬喩・掛詞・同音の語などを用いて、音やイメージの連想からある語を導くものです。枕詞と同じ働きをしますが、枕詞が1句以内のおおむね定型化した句であるのに対し、序詞は一回的なものであり、音数に制限がなく、2句以上3、4句に及び、導く語への続き方も自由です。
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