| 訓読 |
2013
天(あま)の川(がは)水蔭草(みづかげくさ)の秋風に靡(なび)かふ見れば時は来にけり
2014
我(あ)が待ちし秋萩(あきはぎ)咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたひと)に
2015
我(わ)が背子(せこ)にうら恋ひ居(を)れば天(あま)の川(がは)夜舟(よふね)漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ
2016
ま日(け)長く恋ふる心ゆ秋風に妹(いも)が音(おと)聞こゆ紐(ひも)解き行かな
2017
恋ひしくは日(け)長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜(よ)だに
| 意味 |
〈2013〉
天の川の水陰に生えている草々が秋風に靡くのを見ると、ああ、いよいよ年に一度の逢瀬の時がやってきたのだ。
〈2014〉
私が待ちに待っていた秋萩が咲いた。さあ、今すぐ色に染まりに行こう、川向こうのあの人に。
〈2015〉
あの人に早く逢いたいと恋い焦がれていると、天の川から、夜舟を漕いでやってくる櫓の音が聞こえてきた。
〈2016〉
幾日もずっと恋い焦がれてきたので、吹く秋風に乗ってあの子の気配が聞こえてくる。さあ、衣の紐を解いて行こう。
〈2017〉
恋い焦がれて長い日々を過ごしてきたのだから、今だけは、物足りない思いはさせないでおくれ、逢える今夜だけは。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』から「七夕(しちせき)」の歌5首。ここからは2028まで、いよいよ七夕の夜、牽牛と織女の逢会から翌朝の別れまでの様子がうたわれます。ストーリーの展開に沿って配列されており、『人麻呂歌集』における七夕歌の物語的性格がとくに指摘されているところです。
2013・2014・2016・2017は牽牛の立場で詠んだ歌、2015は織女の立場で詠んだ歌とされます。2013の「水蔭草」は、水辺の物陰に生える草。集中ではこの一例のみ。風に揺れやすい草として、微細な変化を感じ取る感受性の象徴で、天の川に実在の植物を配することで、天上世界が身近な自然として具体化されます。「靡かふ」は、「靡く」の継続態。「時は来にけり」は、時、すなわち待ち望んだ7月7日がいよいよ迫ったこと。「けり」は、気づきの助動詞。
2014の「今だにも」は、今からでも。「にほひに行かな」の「にほふ」は、美しい色に染まる意。「行かな」の「な」は、願望。ここは女性に逢う意の譬え。「彼方人」は、遠くにいる人。ここは川向こうの織女を指しています。窪田空穂は、「『今だにもにほひに行かな』は、心理的にも、表現の上でも巧みである。『にほひに』は、逢うを許されている時だから憚りのない心と、萩の花に衣の染まる意もからみうるものだからである。美しい想像である」と述べています。
2015の「うら恋ひ居れば」の「うら」は、心のうち。「漕ぐなる」の「なる」は、伝聞推定の助動詞。直接見ることはできないものの、確かに起こっていると感じ取る心の働きを示しています。「楫」は、櫓。7月7日の夜の織女の心。2016の「ま日長く」の「ま」は、接頭語。「日長く」は、日数長く。「心ゆ」の「ゆ」は、理由を表す「よって」「せいで」の意。「妹が音」の「音」は、気配、動き、様子。「行かな」の「な」は、願望の終助詞。7月7日近くになっての牽牛の昂奮した心。
2017の「恋ひしくは」の「しく」は、過去の助動詞「き」のク語法。「今だにも」は、逢っている今だけでも。「ともしむ」は、不満足にさせる、飽き足らない思いをさせる。「べしや」は反語で、不満足にさせるべきであろうか、ありはしない。「逢ふべき夜だに」は、逢うべきことになっている今夜だけでもで、第3句「今だにも」を繰り返したもの。織女の寝室に入った後の牽牛のはやる気持ちを歌ったもので、抱いても抱いても飽き足らない心情を婉曲に示しています。

なびく(靡く)
ナビクは、外部から働く力の作用によって、その対象が一定の方向に向けられてしまうことをいう。植物などが風や波を受けて揺れ動き倒れ伏すことや、人の心が相手に揺れ動き寄ってしまうことを表す。人の心に関わる後者も、「人の威力や魅力、周囲の状況などに引かれて」(「日国大」)と解釈できる。受動的な状態を表すことばである。単にナビクというほか、勢いを表す接頭語ウチを冠したウチナビクの形で用いられることも多い。また、特に、横にナビクことをタナビクという。タナビクのタナは「棚」と同根。雲や霞、煙などが横方向に長く引き伸びることを表す。『万葉集』では、植物のナビクさまを人事に転換して詠み込む場合が多い。特に、人麻呂は藻がナビクさまを意識的に詠じた歌人である。
~『万葉語誌』から引用
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