| 訓読 |
2022
相(あひ)見(み)らく飽(あ)き足(だ)らねども稲(いな)の目の明けさりにけり舟出(ふなで)せむ妻
2023
さ寝(ね)そめていくだもあらねば白栲(しろたへ)の帯(おび)乞(こ)ふべしや恋も過ぎねば
| 意味 |
〈2022〉
どれほど交わってもまだ満足できないが、すっかり夜が明けたから、舟出するとしよう、わが妻よ。
〈2023〉
一緒に寝始めてからまだ幾らも時間は経っていないのに、もう帯をお求めになるのですか。積もりに積もった恋心も満たされないのに。
| 鑑賞 |
『柿本人麻呂歌集』から「七夕(しちせき)」の歌2首。2022が牽牛、2023がそれに呼応した織女の立場の歌。2022の「相見らく」は「相見る」のク語法で、互いに逢うことは、の意。「稲の目の」は、古代家屋の明り取り、あるいは稲藁の編み目かともいわれ、その目が明るくなる意で「明け」にかかる枕詞。「明けさりにけり」の「けり」は、詠嘆。「舟出せむ」は、舟に乗って帰ろうと思う。7日の夜が明けて、別れなければならない時に、牽牛が織女にいった語です。
2023の「さ寝」の「さ」は接頭語で、共寝をする意。「いくだも」は、幾らも。「白妙の」は、白い布の意で「帯」にかかる枕詞。「帯乞ふべしや」の「や」は反語で、お帰りになるとて帯を求めてよいものでしょうか、の意。「も~ねば」は、しないうちに。帰り支度をしようとする牽牛に対し、織女はまだ続きを求めています。上の牽牛の歌と問答の関係になっており、二人の寝室での姿を想起させる、たいへん官能的な歌となっています。

七夕について
もとは中国の伝説である七夕が日本に伝来した時期は定かではありませんが、七夕の宴が正史に現れるのは天平6年(734年)で、「天皇相撲の戯(わざ)を観(み)る。是の夕、南苑に徒御(いでま)し、文人に命じて七夕の詩を腑せしむ」(『続日本紀』)が初見です。ただし『万葉集』の「天の川安の河原・・・」(巻10-2033)の左注に「この歌一首は庚辰の年に作れり」とあり、この「庚辰の年」は天武天皇9年(680年)・天平12年のいずれかで、前者とすれば、すでに天武朝に七夕歌をつくる風習があったことになります。七夕の宴の前には天覧相撲が行われました。
このころには神仙道も渡来し、これと相俟って行われましたが、七夕の方が一段と喜ばれたらしく、『万葉集』中、七夕伝説を詠むことが明らかな歌はおよそ130首あります。ただし、それらは、人麻呂歌集、巻第10の作者未詳歌、山上憶良、大伴家持の4つの歌群に集中しており、その範囲は限定的ともいえ、もっぱら宮廷や貴族の七夕宴などの特定の場でのみ歌われたようです。七夕伝説は、当時まだ一般化していなかったと見えます。
なお、元の中国の七夕伝説は次のようなものです。昔、天の川の東に天帝の娘の織女がいた。織女は毎日、機織りに励んでいて、天帝はそれを褒め讃え、川の西にいる牽牛に嫁がせた。ところが、織女は機織りをすっかり怠けるようになってしまった。怒った天帝は織女を連れ戻し、牽牛とは年に一度だけ、七月七日の夜に天の川を渡って逢うことを許した――。ところが日本では牽牛と織女の立場が逆転し、牽牛が天の川を渡り、織女が待つ身となっています。なぜそうなったかについて、民俗学の立場から次のように説明されています。「かつて日本には、村落に来訪する神の嫁になる処女(おとめ)が、水辺の棚作りの建物の中で神の衣服を織るという習俗があった。この処女を『棚機つ女(たなばたつめ)』といい、そのイメージが織女に重なったため、織女は待つ女になった。また、当時の日本の結婚が「妻問い婚」という形をとっていたためだと考えられている」。女が男に逢いに行くというのは、日本人の共感を呼ぶには無理なストーリーだったのでしょう。
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