| 訓読 |
2100
秋田(あきた)刈る刈廬(かりいほ)の宿(やど)りにほふまで咲ける秋萩(あきはぎ)見れど飽(あ)かぬかも
2101
我(あ)が衣(ころも)摺(す)れるにはあらず高松(たかまつ)の野辺(のへ)行きしかば萩(はぎ)の摺(す)れるぞ
2102
この夕(ゆふへ)秋風吹きぬ白露(しらつゆ)に争ふ萩(はぎ)の明日(あす)咲かむ見む
2103
秋風は涼しくなりぬ馬(うま)並(な)めていざ野に行かな萩(はぎ)の花見に
2104
朝顔(あさがほ)は朝露(あさつゆ)負(お)ひて咲くといへど夕影(ゆふかげ)にこそ咲きまさりけれ
| 意味 |
〈2100〉
秋の田を刈るための仮小屋が、美しい色に映えるほどに咲いている萩の花は、見ても見飽きないことだ。
〈2101〉
私の衣は、私が摺り染めにしたわけではない。高松の野を歩いたので、萩の花のほうが摺ったのだ。
〈2102〉
この夕べ、秋風が吹いた。早く咲かせようと置く白露に、咲くまいとして争う萩の、明日は咲くのを見よう。
〈2103〉
秋風は涼しくなった。馬を連ねて、さあ、野に行こう、萩の花を見に。
〈2104〉
朝顔は、朝露を浴びて咲くといわれるが、夕方の光の中でこそ一段と咲きまさって見える。
| 鑑賞 |
作者未詳の「花を詠む」歌5首。2100の「秋田刈る」は、秋の田を刈るための。「刈廬」は、仮小屋。秋の収穫のため仮の小屋をつくり、常の住居から離れ住んで刈り入れを行っていたことが分かります。「にほふまで」は、美しい色に映えるまでに。農作業という日常的・労働的な場面にあっても、自然の美が人の心を慰め、感動を与え続けるという認識が、静かに、しかし確かに示されている歌です。
2101の「摺れるにはあらず」の「摺る」は、摺染めにすること。8音の字余りですが、単独母音アを含む許容される字余り句。「高松」は「高円」の別称で、春日山の南に続く地。「萩の摺れるぞ」は、野辺を行くうちに、知らず知らずのうちに萩に触れ、その花や葉の色、あるいは香りが衣に移ったのだ、という発見と驚きを含んだ表現であり、「摺れるぞ」と言い切ることで、萩の存在がいかに身近で、かつ強く人の生活に入り込んでいるかが印象づけられます。
2102の「白露に争ふ萩」は、当時、露は花を咲かせようとし、萩の花は咲くまいと争うと感じられていたことによる表現。また、露を男、萩を女と見、夫婦関係を連想しての心です。窪田空穂は、「『この暮秋風吹きぬ』は、知性的のものである。『白露に争ふ萩の』以下は人間生活に自然現象を移入したもので、耽美気分の具象である。矛盾した二つの傾向が一首の歌の中に、安らかに、当然のことのように詠まれているのである。奈良朝に入って初めてあらわれた風である」と述べています。
2103の「秋風は涼しくなりぬ」は、秋風がもたらす涼感を率直に述べており、盆地である大和の夏の暑さから解放された安堵と快活さを感じさせる語となっています。「馬並めて」は、馬を連ねて、の意で、個人的な感慨にとどまらず、仲間や同行者を含む集団的な行楽の気分が読み取れます。「いざ」は、人を誘う感動詞。「行かな」の「な」は、自身への願望。当時の馬は今でいう高級外車のようなものですから、相応の身分ある人の歌と見えます。
2104の「朝顔」は未詳ながら、夕方に咲きまさると歌われているので、現在のアサガオとは異なり、桔梗あるいはヒルガオ、ムクゲかといわれます。「夕影」は、夕方の薄暗い光。「咲きまさりけれ」の「けれ」は、気づきの助動詞「けり」の已然形で、上の「こそ」の結び。一段と見事に咲いていることに気づいたよ、の意。時間の移ろいによって同一の花が異なる表情を見せることを捉え、その比較の中から新たな美を見出している歌です。

かげ(光・影・陰)
カゲは、太陽や月や灯火のような光そのものを表すとともに、その光によって照らし出される像、さらにはその背後にできる闇の部分をも意味する。カゲには、光と闇という、相互に対立する意義が備えられているが、そのようなカゲのありかたは、古代人の心性の奥行きの深さをよく示している。
光としてのカゲは、もともとはキラキラとした輝き、明滅したり揺らめいたりする光を意味した。星の輝きを「星影」と呼び、灯火の揺らめきを「火影」と呼ぶのはそのためである。「朝影」「夕影」も、朝夕の陽光を意味した。そこにも光の微妙な移ろいが意識されている。
~『万葉語誌』から引用
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