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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2148~2152

訓読

2148
あしひきの山より来(き)せばさを鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを
2149
山辺(やまへ)にはさつ男のねらひ畏(かしこ)けどを鹿鳴くなり妻が目を欲(ほ)り
2150
秋萩(あきはぎ)の散りゆく見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿(しか)鳴くも
2151
山遠き都にしあればさを鹿の妻呼ぶ声は乏(とも)しくもあるか
2152
秋萩(あきはぎ)の散り過ぎゆかばさを鹿はわび鳴きせむな見ずはともしみ

意味

〈2148〉
 山道を通って来たなら、牡鹿が妻を呼ぶ声を聞くことができただろうに。
〈2149〉
 山のほとりでは猟師を狙っているのが恐ろしいけれど、牡鹿は鳴いている、妻に逢いたくて。
〈2150〉
 秋萩が散っていくのを見て、牡鹿は心がふさぎ、妻恋しさに鳴いているよ。
〈2151〉
 山から遠い都に住んでいるので、牡鹿の妻を呼ぶ声があまり聞こえてこないのだろうか。
〈2152〉
 萩の花が散ってしまうと、牡鹿は侘しがって鳴くことだろう、萩の花を見ないと寂しいので。

鑑賞

 作者未詳の「鹿鳴を詠む」歌5首。2148の「あしひきの」は「山」の枕詞。「来せば」は、過去の仮定条件で、来たならば。「聞かましものを」は、聞くことができただろうに、という反実仮想の結句。「ものを」により、残念さ・心残りの感情が強く滲み出ています。窪田空穂はこの歌について、「作者はある平地から平地へと来たのであるが、そこへ来るには、平地続きの路と山越えの道とあって、作者は平地続きの路のほうを来たのである」と解説し、「日常生活に即した歌で、詠み方も素朴単純である。いかにあわれを愛していたかの実情の窺われる歌である。軽いものながら味わいがある」と述べています。

 
2149の「山辺には」は、山のあたり一帯を指す語。「さつ男のねらひ」の「さつ男」は猟師で、猟師が獲物を得ようとねらっていること。「畏けど」は、恐ろしいけれど。「妻が目を欲り」は、妻に逢いたくて。本歌の主題は、危険を承知の上で発露する恋慕の切実さであり、単に動物の生態を描いたというのにとどまらず、人間の恋にも通じる普遍的真理を暗示しています。危険や障害があってもなお抑えがたい恋心――それを、猟と鹿という緊張関係の中で象徴的に表現しているものです。

 
2150の「散りゆく見れば」の主語は、牡鹿。「おほほしみ」は「おほほし」のミ語法で、気がふさぐので。「妻恋すらし」の「すらし」は、推量。「さを鹿鳴くも」の「も」は、詠嘆。本歌の主題は、秋の衰えに触発される寂しさと恋慕の感情の共鳴であり、秋萩が散っていくのを見ることで、作者は心細さを覚え、その心情に呼応するかのように、さを鹿が妻を恋って鳴いている――と感じ取っているのです。

 
2151の「山遠き」は、山から隔たった場所、すなわち自然から距離のある環境を表す語。「都にしあれば」の「し」は、強意の副助詞。「あれば」は、住んでいるので。「乏しくもあるか」の「乏し」は、少ない、ほとんど聞こえない意。「もあるか」は詠嘆を含む疑問で、期待と現実の落差に対する感慨を示しています。都に住むことによって感じる自然との隔たりと季節感の希薄化を歌っています。

 
2152の「わび鳴きせむな」の「わび鳴く」は、つらさ・悲しさに耐えかねて鳴く意。「せむな」は推量・意志を帯び、(きっと)わびしく鳴くだろうの意。「ともしみ」は「ともし」のミ語法で、心引かれるので、寂しいので。秋の盛りを過ぎた後に訪れる喪失感と、恋慕の切実さを歌っているもので、ここでの鹿は、単なる自然描写の対象ではなく、移ろいゆく季節の中で満たされぬ思いを抱える存在の象徴となっています。その姿は、人間の恋や、失われゆく時への哀惜とも重なり合います。
 


『万葉集』に詠まれた動物

1位 馬 88首
2位 鹿 63首
3位 猪(しし) 15首
4位 鯨魚・勇魚(いさな) 12首
5位 牛 4首
6位 むささび 3首
6位 犬 3首

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