| 訓読 |
2163
草枕(くさまくら)旅に物思(ものも)ひ我(わ)が聞けば夕(ゆふ)かたまけて鳴くかはづかも
2164
瀬を早み落ちたぎちたる白波(しらなみ)にかはづ鳴くなり朝夕(あさよひ)ごとに
2165
上(かみ)つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕(ゆふ)されば衣手(ころもで)寒(さむ)み妻まかむとか
2166
妹(いも)が手を取石(とろし)の池の波の間(ま)ゆ鳥が音(ね)異(け)に鳴く秋過ぎぬらし
2167
秋の野の尾花(をばな)が末(うれ)に鳴くもずの声聞きけむか片聞(かたき)け我妹(わぎも)
| 意味 |
〈2163〉
旅先で物思いをしながら耳を澄ませていると、夕方が近づいたとばかりに、カジカガエルの鳴く声が聞こえてきた。
〈2164〉
川の瀬が早いので、流れ落ちて湧き立つ白波の中に、カジカガエルが鳴いている、朝夕ごとに。
〈2165〉
上流の瀬で、カジカガエルが妻を呼んで鳴いている。夕方になると衣の袖のあたりが寒いので、妻と共寝しようというのだろうか。
〈2166〉
妻の手を取るという取石(とろし)の池の波間から、水鳥がいつもと違う声で鳴いている。秋が深まったようだ。
〈2167〉
秋の野の尾花の穂先で鳴くモズの声を聞いただろうか、よく聞いてごらん、わが妻よ。
| 鑑賞 |
作者未詳歌5首。2163~2165は「蛙(かはず)を詠む」歌5首。「蛙」は、カジカガエル。夏から秋にかけて美しい声で鳴きます。2163の「草枕」は「旅」の枕詞。「旅に物思ひ」は、旅の途上で物思いに沈んでいる状態で、孤独感や郷愁が含意されます。「夕かたまけて」は、夕方が近づいたとばかりに、夕方を待ち受けて。「鳴くかはづかも」は、蛙が鳴いていることへの詠嘆。主題は旅の孤独と自然の声との共鳴であり、旅にあって物思いに沈む作者が、夕暮れ時に蛙の鳴き声を耳にし、その声は、旅の寂しさを慰め、また心情をいっそう深めるものとなっています。
2164の「瀬を早み」の「早み」は「早し」のミ語法で、瀬が速いので。「落ちたぎちたる」の「たぎつ」は、水がほとばしり流れる意。本歌の主題は、荒々しい自然環境の中に息づく生命の持続であり、自然の動勢そのものを前面に押し出しています。瀬の流れが速く、白波が激しく立つ場所であっても、朝夕ごとに変わらず鳴いている蛙の姿は、自然の厳しさと生命のたくましさとを同時に示しています。
2165の「上つ瀬」は、川の上流の瀬を指す語で、水音の高い、清冽な場所を想起させます。「夕されば」は、夕方になると。「衣手寒み」は、衣の袖が寒いので。「妻まかむとか」は、妻と共寝しようというのか。「まく」は枕にする意で、「妻まく」は妻と手枕を交わして寝ることをいいます。清流の瀬、夕暮れの冷気、蛙の鳴き声という具体的な自然要素を通じて、季節の深まりと恋の衝動とを静かに結びつけた、叙情性の高い一首となっています。
2166・2167は「鳥を詠む」歌。2166の「妹が手を」は、取ると続き、「取石」にかかる枕詞。集中に類の多い即興的枕詞です。「取石の池」は、大阪府高石市の東部にあった池。「波の間ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す副助詞。水面に立つ波の合間を縫って響く鳥の声を表します。「鳥」は、水鳥。「異に鳴く」は、いつもと違う声で鳴く。「秋過ぎぬらし」の「ぬらし」は、完了・推量で、「秋がもう過ぎてしまったらしい」という、遅れて気づく感慨を表しています。鳥の姿は見えず、声だけ聞こえた心の歌と見えます。
2167の「尾花」は、秋の七草の一つであるススキの花穂。「末」は、先端。「もず」は、多くの獲物を集めることから物集(もず)と名付けられ、また、時に他の鳥のような鳴まねをするため「百舌」の字があてられたといいます。「声聞きけむか」の「けむ」は過去推量で、その声を聞いただろうかと、相手に問いかけたもの。「片聞け」は、ひたすら聞け。「片聞く我妹」と訓んで、ろくに耳に入れない我が妻は、のように解するものもあります。

作者未詳歌
『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、畿内圏のものであることがわかります。
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いも(妹)
『万葉集』の歌においては、概ね男性から親愛の情をこめて女性を呼ぶ呼称として用いられる。セ(背・兄)と一対をなし、古代の兄妹の濃密な関係を、恋愛関係にある男女の関係に持ち込む呼称と見られている。
『万葉集』には相聞歌を中心に約670例見られ、恋愛においては一般化している呼称に見えるが、次の歌を見ると、やはり男性が女性をイモと呼ぶことには、特別な意味合いが込められているようである。
妹と言はばなめし恐ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも(巻第12-2915)
イモなどと呼ぶと無礼で畏れ多いけれども、それでも相手の女性をイモと呼びたいという衝動が歌われており、女性をイモと呼ぶことが男女の特別な関係を前提とすることを示している。
元来イモは、男性から女性の姉妹を指す親族名称であり、歌においてもイモの原義で用いられた用法も見られる。
言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ(巻第6-1007)
市原王の歌で、「物言わぬ木でさえ兄妹があるというのに、自分が独りっ子であることが苦しい」というほどの意味である。このイモは親族名称としてのイモの意で用いられている。
~『万葉語誌』から引用
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