| 訓読 |
2213
このころの暁露(あかときつゆ)に我(わ)が宿(やど)の秋の萩原(はぎはら)色づきにけり
2214
夕されば雁(かり)の越えゆく龍田山(たつたやま)時雨(しぐれ)に競(きほ)ひ色づきにけり
2215
さ夜(よ)更(ふ)けてしぐれな降りそ秋萩(あきはぎ)の本葉(もとは)の黄葉(もみち)散らまく惜しも
2216
故郷(ふるさと)の初黄葉(はつもみちば)を手折(たを)り持ち今日(けふ)ぞ我(わ)が来(こ)し見ぬ人のため
2217
君が家の黄葉(もみちば)は早(はや)散りにけり時雨(しぐれ)の雨に濡(ぬ)れにけらしも
| 意味 |
〈2213〉
このごろ明け方に降りる露で、我が家の庭の秋の萩原はすっかり色づいてきた。
〈2214〉
夕方になると雁が飛び越えていく龍田山は、時雨と競うかのように色づいていく。
〈2215〉
こんな夜更けになって時雨よ降らないでおくれ。秋萩の本葉の黄葉が散ってしまうのが惜しいから。
〈2216〉
故郷の飛鳥の初黄葉を手折って、今日私はやって来ました。まだ見ていない都の人のために。
〈2217〉
あなたの家の黄葉は早くも散ってしまいましたね。時雨の雨に濡れてしまったからでしょうか。
| 鑑賞 |
作者未詳の「黄葉(もみち)を詠む」歌5首。2213の「このころの」という語は、急激な変化ではなく、知らぬ間に進んだ季節を示唆します。「暁露」は、夜明け近くに置く露。「宿」は、家の敷地・庭先。「萩原」は、ここは萩が庭一面に茂っているさまを言ったもの。「色づきにけり」の「けり」は、気づきと感慨。ごく身近な場所に訪れた季節の変化を、静かに受け止める一首であり、暁露という一日のうちでも最も繊細な時間帯の自然現象に着目し、その積み重ねによって萩原が色づいたことを詠んでいます。
2214の「龍田山」は、奈良県生駒郡三郷町の龍田大社の背後にある山。「時雨」は、秋の末から冬の初めごろに、降ったりやんだりする小雨。「時雨に競ひ」は、時雨と先を争って。上の「雁」とともに黄葉を促すものとして見ています。視覚・聴覚・時間帯を重ね合わせた、秋から冬への転換点を詠む一首であり、夕暮れ、雁の渡り、時雨、そして紅葉――いずれも季節の終盤を象徴する景物が一首に凝縮されています。「競ひ」という語が印象的で、時雨が降るたびに色づく紅葉が、あたかも自然同士で張り合っているかのように描かれています。
2215の「本葉」は、「末葉(うらば)」に対しての語で、幹の方にある葉。「な降りそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「本葉」は、根元近くの葉のことで、最も早く色づき、散りやすい部分。「散らまく」は「散らむ」のク語法で名詞形。「惜しも」は、強い詠嘆。前の歌が時雨をもみじを促すものと言っているのに対し、この歌ではもみじを散らせやすいものと見ており、自然に語りかける形で、美の消失を惜しむ心情を率直に表現しています。
2216の「故郷」は、古京。奈良京から飛鳥または藤原京を指しての称。「初黄葉」は、その年初めて色づいた紅葉。「手折り持ち」は、手で折って持ってきて、の意で、賞美のあまりの風流の行為。「今日ぞ我が来し」は「ぞ~し」による強調構文。まさに今日、私は来た。奈良から飛鳥に行った人が、その地の初黄葉を折って来て友に贈る時に添えた歌とされます。窪田空穂は、「奈良の人には飛鳥は故郷としてなつかしかったので、そこの初黄葉といえば、さらになつかしい物であったろう。儀礼を超えた心のあるものである」と述べています。
2217の「君が家の」の「君」は、男から男への称と見られます。「黄葉は早散りにけり」の原文「之黄葉早者落」の訓みは諸説あり、モミチバハヤクチリニケリ、トモシキモミチハヤクフルなどと訓むものがあります。トモシキは、「之」を「乏」の誤写であろうとしての訓みで、その場合は、珍しい意。「時雨の雨」は、晩秋から初冬にかけて降る通り雨。「濡れにけらしも」は、「にけり(完了)」+「らし(推量)」+「も(詠嘆)」で、複合的な感慨。相手の住まいにある紅葉の散りゆく様子を案じる心を詠んだ一首であり、作者は直接その場にいるわけではなく、時雨が降ったことから、君の家の紅葉はすでに散ってしまったに違いないと想像しています。

『万葉集』の用字法
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