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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2218~2222

訓読

2218
一年(ひととせ)にふたたび行かぬ秋山を心に飽(あ)かず過ぐしつるかも
2219
あしひきの山田作る子(こ)秀(ひ)でずとも縄(なは)だに延(は)へよ守(も)ると知るがね
2220
さを鹿の妻喚ぶ山の岡辺(をかへ)なる早田(わさだ)は苅らじ霜(しも)は零(ふ)るとも
2221
我(わ)が門(かど)に守(も)る田を見れば佐保(さほ)の内(うち)の秋萩(あきはぎ)すすき思ほゆるかも
2222
夕さらず河蝦(かはづ)鳴くなる三輪川の清き瀬の音(と)を聞かくし良しも

意味

〈2218〉
 一年の間に二度はめぐり逢えない秋の山なのに、心行くまで堪能しないままに過ごしてしまった。
〈2219〉
 山田を耕している若者よ、稲穂はまだ出揃っていないけれど、縄だけでも張りめぐらせておきなさい、番をしていると人に知らせるために。
〈2220〉
 牡鹿が岡のあたりで妻を呼んでいるので、早稲田の稲はまだ刈るまい、たとえ霜が降っても。
〈2221〉
 我が家の門で見守っている田を見ていると、佐保の里の秋萩やすすきのさまが思い起こされる。
〈2222〉
 夕暮れになるといつも蛙が鳴く三輪川の、清らかな瀬の音を聞くのは快い。

鑑賞

 作者未詳歌5首。2218は「黄葉(もみち)を詠む」歌。2218の「一年に」は、一年のうちに。「ふたたび行かぬ」は、二度と行くことができない。「秋山を」の「を」は詠嘆で、秋の山なのに。「心に飽かず過ぐしつるかも」は、十分に満ち足りることなく過ごしてしまったことだ。秋という季節の一回性と、それを味わい尽くせなかった悔いを率直に詠んだ一首であり、作者は、その貴重な時間を十分に堪能しきれなかったという思いを、「心に飽かず」という表現に込めています。2198番から2217番まで、多様な角度から紅葉と秋の深まりが詠まれてきましたが、本歌はそれらを包み込むように、季節を生きる人間の心そのものを詠み上げています。

 2219~2221は「水田(こなた)を詠む」歌。「水田(こなた)」は『倭名抄』に「古奈太」とある訓で、よく耕した田の称であるともいいます。
2219の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山田作る子」の「子」は、若者。「秀でずとも」は、稲穂が出揃わなくても。「縄だに延へよ」は、占有を示す標縄だけでも張りなさい、の意。「守る子と知るがね」の「がね」は、希望的推測を表す終助詞。~となるように。相手(女)が幼くても約束だけしておきなさいという比喩歌とみられます。

 
2220の「妻喚ぶ」は、雌鹿を呼び求めて鳴くことで、秋の代表的な情景。「岡辺なる」は岡のあたりにある。「早田は苅らじ」は、早稲の田は刈るまい。妻問いをする牡鹿の邪魔をすまいとする心遣りの歌で、賀茂真淵による『万葉新採百首解』では、この歌を秀歌の一つに掲げ、心に思ったとおりを何の技巧もなしにすなおに詠うことが歌の真(まこと)だと評しています。また、霜が降って収穫の機会を失うかもしれなくとも、自然の情趣や命の営みを尊重しようとしており、ここには、実利よりも情や風情を重んじる、万葉的価値観が表れています。

 
2221の「守る田」は、猪などに稲穂を食い荒らされないように番をしている田。「佐保の内」は、佐保川を中心とした一帯の地域で、大伴氏の邸宅などのあった所。「秋萩すすき」は、秋萩やすすき。「思ほゆるかも」は、詠嘆。「田」と「萩・すすき」という、実用の景と観賞の景が結びついている点が特徴で、生活のために守る田が、単なる労働の対象にとどまらず、美しい秋草の記憶を呼び起こす契機となっていることに、万葉人の豊かな感受性が表れています。作者と佐保の内との位置関係がはっきりしませんが、佐保から荘園を管理するために来ている人の歌で、大伴氏に縁故のある人でしょうか。

 
2222は「川を詠む」歌。「夕さらず」の「さらず」は、欠けることなくの意で、夕方になるといつも、夕方ごとに。「河蝦」は、カジカガエル。「三輪川」は、初瀬川の三輪山麓あたりでの呼称。「聞かく」は「聞く」のク語法で名詞形。「し」は、強意の副助詞。「良しも」は、詠嘆。この歌は、視覚よりも聴覚に重点を置いた自然讃歌であり、夕暮れ時、蛙の声と川瀬の水音が重なり合う三輪川の情景が、簡潔な言葉で描かれています。佐佐木信綱はこの歌を評し、「語句が洗練されて清澄の感じを与える。さわやかな水の音と、涼しい河鹿の声との二重奏が耳にあるようである」と述べています。
 


序詞について

 序詞(じょことば)は和歌の修辞法の一つで、表現効果を高めるために譬喩・掛詞・同音の語などを用いて、音やイメージの連想からある語を導くものです。枕詞と同じ働きをしますが、枕詞が1句以内のおおむね定型化した句であるのに対し、序詞は一回的なものであり、音数に制限がなく、2句以上3、4句に及び、導く語への続き方も自由です。以下に序詞の用例を列記します。青色の句が序詞で、赤色の語句がそれに導かれた語です。

  • 高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてぞ思ふ妹に逢はぬ夜は(巻11-2716)
  • 滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむとわが思はなくに(巻3-242)
  • 橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず(巻6-1027)
  • 旅にありて物をぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに(巻12-3158)
  • 多麻川に曝す手作りさらさらに何ぞこの児のここだ愛しき(巻14-3373)
  • 玉くしげみむろの山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ(巻2-94)
  • 玉桙の道行き疲れ稲席しきても君を見むよしもがも(巻11-2643)
  • たらちねの母が養ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして(巻12-2991)
  • たらつねの母が飼ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも(巻11-2495)
  • 父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで(巻20-4326)

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賀茂真淵と『万葉集』

 江戸中期の国学者・賀茂真淵(1697〜1769年)にとって、『万葉集』は単なる古典の研究対象を超え、彼の思想や文学観の根幹をなすものでした。真淵が『万葉集』に何を見出し、それをどのように紐解いたのか、その業績と功績を整理します。

  1. 「ますらをぶり」の提唱
     真淵の文学観を象徴する言葉が「ますらをぶり(益荒男風)」です。彼は『古今和歌集』以降の王朝和歌に見られる繊細で優美な「たをやめぶり(手弱女風)」を、技巧に走りすぎた「やせたる(生命力の乏しい)」ものとして批判しました。これに対し、『万葉集』に溢れる、飾り気がなく、力強く、素朴で雄大な気風(特に東歌や防人歌、柿本人麻呂の歌など)を「健き(たけき)心」「直き(なおき)心」として絶賛しました。歌は理屈や技巧ではなく、内から湧き出る自然な感情をそのまま詠むべきだという、真淵の理想がここにあります。
  2. 独自の万葉集研究と主著
     真淵は、師である荷田春満の遺志を継ぎ、独自の文献学的なアプローチで『万葉集』の解読を進めました。当時はすでに難解になっていた万葉の言葉(古語・枕詞など)を、客観的な文脈や訓法の精査によって実証的に読み解いていきました。

    ●『万葉考』
     『万葉集』の本格的な注釈書。全巻の完成には至りませんでしたが、巻一・巻二、および巻十一・巻十二などの詳細な語釈と評釈を行い、後世の万葉研究の基礎を築きました。
    ●『冠辞考』
     万葉和歌を理解する上で不可欠な「枕詞」を系統的に研究・分類した画期的な書物です。
    ●『歌意考』
     自身の和歌論・文学観を理論的にまとめた論考で、「古代の心(古意)」へ立ち返ることの重要性を説いています。
  3. 国学の発展と後世への影響
     真淵の『万葉集』研究は、単に文学の好みを語るものではなく、「古道(こどう)」――儒教や仏教といった外融の思想に染まる前の、日本本来の清く真っ直ぐな精神性――を追求するための方法論でもありました。この「万葉の調べを通じて古代の精神を復古する」という姿勢は、門下生である本居宣長へと受け継がれます。宣長は真淵の意志を継ぎつつ、研究の対象を『古事記』へと広げ、国学を一大体系へと発展させることになります。また、明治期に正岡子規らが提唱した「短歌写生説」や万葉回帰の動きも、真淵の「ますらをぶり」の系譜に連なるものと言えます。

     真淵の言葉(『歌意考』より要約)に、「今の人は、平安時代の雅びな言葉ばかりを真似て歌を作ろうとするが、それは形骸化した言葉の遊びにすぎない。言葉が直く、心が雄大であった万葉の時代に立ち返ってこそ、真の歌が生まれるのである。」というものがあります。真淵によって『万葉集』は、単なる古い歌集から「日本人の心の原点」へと高められたと言えます。
古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。