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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2244~2248

訓読

2244
住吉(すみのえ)の岸を田に墾(は)り蒔(ま)きし稲かくて刈るまで逢はぬ君かも
2245
太刀(たち)の後(しり)玉纒(たままき)田居(たゐ)にいつまでか妹(いも)を相(あひ)見ず家(いへ)恋ひ居(を)らむ
2246
秋の田の穂(ほ)の上(うへ)に置ける白露(しらつゆ)の消(け)ぬべくも我(わ)は思ほゆるかも
2247
秋の田の穂向(ほむ)きの寄れる片寄(かたよ)りに我(わ)れは物思(ものも)ふつれなきものを
2248
秋田刈る刈廬(かりいほ)を作り廬(いほ)りしてあるらむ君を見むよしもがも

意味

〈2244〉
 住吉の崖の上まで田に開墾して蒔いた稲を、こうして刈り取るようになるまでも、長い間、逢ってくださらない、あの人は。
〈2245〉
 太刀の後に玉を巻くというではないが、この玉纒の田にいつまでいて、妻に逢えないまま家を恋しく思うのだろうか。
〈2246〉
 秋の田の稲穂の上に置いている白露のように、消え失せてしまいそうなほど、私はあの人のことが思われてならない。
〈2247〉
 秋の田の稲穂が靡いて片方に寄るように、私はひたすらに物思いに耽っています。あなたはつれないけれど。
〈2248〉
 秋の田を刈るための仮小屋を作って、そこに寝泊まりしていらっしゃるはずのあなたに、お逢いする手立てがあればよいのに。

鑑賞

 作者未詳の「水田(こなた)に寄す」歌5首。「水田(こなた)」は『倭名抄』に「古奈太」とある訓で、よく耕した田の称であるともいいます。2244の「住吉」は、大阪市住吉区。「住吉」は平安時代になってスミヨシと訓むようになりましたが、奈良時代以前はスミノエと訓んでいます。「岸」は、山脇の崖っぷち。「墾り」は、荒地を開墾して。「かくて」は、こうして。「逢はぬ君かも」の「かも」は、詠嘆。上4句は、逢えない月日の長さを、新田の耕作過程に即して述べたもので、作者が恋人を待ち続ける心情と重なり、恋の持続と苦しさを際立たせます。また、実りの象徴である稲を用いながらも、恋は実らないという対照が、深い余情を生んでいます。

 
2245の「太刀の後」は、鞘の尻へ玉を巻いて装飾したことから「玉纒」にかかる枕詞。「玉纒」は地名ながら、所在未詳。「太刀の後玉纒く」として「田居」を導く序詞とみる説もあります。「田居」は、田んぼ。「相見ず」は、逢わず。都を離れて田居にある男性が、妻と家郷を思い慕う心情を詠んだものとされ、妻に逢えぬ苦しさと、家郷を恋う思いとが重なり合い、個人的な恋情を超えた切実さがにじみ出ています。なお、「太刀」という武具の語が用いられていることから、作者は防人や地方勤務の官人である可能性も指摘されます。

 
2246の「穂の上に置ける白露」は、稲穂に宿る露で、朝日が昇ればすぐに消える、きわめて儚い存在の象徴。上3句は「消」を導く譬喩式序詞。「消ぬべく」は、消えて(死んで)しまいそうなほど。「我は思ほゆるかも」の「思ほゆる」は自然にそう思われる意。「かも」は詠嘆。恋や孤独によって心身が衰え、消え入りそうな自己認識の歌であり、白露の一瞬の命を自らに重ねることで、作者は自分の存在の不確かさ、心の弱さを静かに吐露しています。

 
2247の「秋の田の穂向きの寄れる」は、秋の実った重い稲の穂が、風の向きで一方に寄ること。上2句は「片寄り」を導く譬喩式序詞。「片寄りに」は、一方に寄って、ひたすらに。恋心が一方通行であることの比喩。「つれなきものを」の「ものを」は逆接的な詠嘆で、冷淡であるのに。稲穂が一方向に寄る自然現象を、自分だけが相手を思い続けている状態に重ね、恋の不均衡を鮮やかに表現しています。作者は相手を責め立てるのではなく、「つれなきものを」と静かに嘆くことで、恋の切なさをより深く印象づけています。この歌について文学者の上野誠は、「詩というものは、イメージを形にするものですが、秋の田の穂が風によって一方向に靡いている姿を、気持ちが一方向に靡くことの喩えとして使っているわけです。こういう思いで、千三百年前の人が秋の田の穂向きを見ていたと思うと、私はワクワクします」と言っています。

 
2248の「秋田刈る」は、原文「秋田〔口+刂〕」を「秋田苅」の誤りとする説の訓みに従っていますが、「秋の田を」と訓む説もあります。「刈廬」は、収穫期に田のそばに設ける仮小屋。「廬り」は、仮小屋に泊まること。「見むよしもがも」の「よし」は、方法・手立て。「もがも」は、願望。女の歌であり、農作業のため離れた場所で暮らす恋人を、ひと目でも見たいと願う切実な思いを詠んでいます。
 


つま(妻・夫)

 ツマとは、本体に対して添えられている物の意である。現代語では、母屋に対してその脇にある建物を「妻屋」といい、刺身に添えられている大根の千切りを「刺身のつま」ということなどに、その意味が受け継がれている。夫婦関係の呼称としては、男性を主体とする場合には、今言うところの「妻」を、女性を主体とする場合には、今言うところの「夫」を指す呼称であった。つまり「配偶者」という言葉が最もよく当てはまる。

 類義語であるイモ・セが当事者同士の愛情の上に成り立つ呼称であるのと比べると、ツマは夫婦関係であることが社会的に認知されている男女をいうのが基本である。

 『万葉集』の用例では、現代と同じく女性の妻を指すものがやはり多いが、女性から夫を指す例もしばしば見られる。

~『万葉語誌』から引用

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