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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2254~2258

訓読

2254
秋萩(あきはぎ)の上に置きたる白露(しらつゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは
2255
我(わ)が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我(あ)れ恋ひめやも
2256
秋の穂(ほ)をしのに押しなべ置く露(つゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは
2257
露霜(つゆしも)に衣手(ころもで)濡(ぬ)れて今だにも妹(いも)がり行かな夜(よ)は更(ふ)けぬとも
2258
秋萩(あきはぎ)の枝(えだ)もとををに置く露(つゆ)の消(け)かもしなまし恋ひつつあらずは

意味

〈2254〉
 秋萩の上に降りた白露がやがて消えるように、私は消えてしまった方がましなのではないか。こうして悶々と恋い焦がれ続けるくらいなら。
〈2255〉
 我が家の庭の萩には鮮やかに露が降りている。その露のようにはっきりと人目につくような恋などするものですか。
〈2256〉
 秋の稲穂がしなうまでに一面に押し靡かせている白露の、その消えるように、私も消えて死ぬべきなのか、恋い続けていずに。
〈2257〉
 露や霜で衣の袖を濡らしながらも、今すぐにでも妻のところへ行こう。たとえ夜は更けても。
〈2258〉
 秋萩の枝がたわむばかりに置く露がやがて消えるように、私も消えて死ぬべきだったろうか、恋い続けていずに。

鑑賞

 作者未詳の「露に寄す」歌5首。2254の上3句は「消」を導く譬喩式序詞。「消かもしなまし」の「消」は死ぬこと、「かも」は疑問、「まし」は仮想の助動詞。消えてしまえたなら。恋の苦しさから逃れたいという切実な願いを主題としたものですが、弓削皇子の歌にある「秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは」(巻第8-1608)と同形歌であり、その古歌をある場面で利用したものと見られています。

 
2255の「宿」は、家の敷地・庭先。上3句は「いちしろく」を導く譬喩式序詞。「いちしろく」は、いちじるしく、人目につくほどに。「しも」は、強意。「我れ恋ひめやも」は、反語表現。どうしてそんなに恋していようか、いやしていない。鮮やかな露のように表面に表れそうになる恋心を抑えようとし、それでも抑えきれない思いを詠んでいる女の歌です。窪田空穂は、「平凡な譬喩であるが、実際に即しているために深みのあるものとなっている」と述べています。

 
2256の「秋の穂」は、実りの最盛期にある稲穂。「しのに押しなべ」の「しのに」は、しなうほどに。「押しなべ」は、一面に、等しく。上3句は「消」を導く譬喩式序詞。「消かもしなまし」の「消かも」は可能、「しなまし」は仮定反実。消えることができたなら、という、実現しない願い。「恋ひつつあらずは」は、恋い続けていずに、恋い続けていなければ。恋の苦しさから解放されたいという切実な願望を詠んだ一首であり、作者は、稲穂一面に置かれた露の「消えやすさ」に自己を重ね、もし自分も露のように消えることができたなら、恋の苦しみから逃れられるのに、と嘆いています。しかし、その願いは「恋ひつつあらずは」という条件付きであり、恋をやめることができないという現実が、いっそう痛切に浮かび上がります。

 
2257の「露霜」は、露と霜、または露が凍って霜のようになったもので、冷え冷えとした露を表現する歌語。「衣手」は、衣の袖。「今だにも」は、今だけでも、せめて今すぐにでも。「妹がり」は、妻のもとへ。「行かな」の「な」は、自身に対しての願望。「夜は更けぬとも」の「とも」は逆接で、たとえ夜が更けていても。夜の冷たさや困難をも厭わず、恋人のもとへ急ごうとする強い恋情を詠んでおり、恋の苦しさを嘆くだけでなく、行動へ踏み出そうとする切迫感が、歌に躍動を与えています。

 
2258の「枝もとををに」は、枝がたわむほどに。上3句は「消」を導く譬喩式序詞。これと同じ表現の序詞が、大伴像見(おおとものかたみ)の歌(巻第8-1595)にあります。また、2256の序詞の上2句を変えただけの歌であり、窪田空穂は「流行歌の勢力と、その追随のさまが思われる」と言っています。「消かもしなまし」の「消かも」は可能、「しなまし」は仮定反実で、実現しえない願いとしての消えてしまえたなら、の意。「恋ひつつあらずは」は、恋い続けていずに、恋い続けていなければ。人知れず深く抱え込んだ恋の苦しみから逃れたいという願望を詠んだ歌であり、露はやがて消えるが、恋は消えない。その対照が、歌の哀切さをいっそう深めています。
 


しのふ(偲ふ)

 眼前に見える物を媒介として遠く離れてある人や物に心が引き寄せられることを意味する。「賞美する」の意とされる場合も、眼前に見える具象的な物を通じて、そこに内在する本質に思いを致す意と捉えることで、眼前にいない人や物に思いを馳せる意と統一的に解することができる。

 シノフは類義語オモフと重なる部分も大きいが、また異なる側面を持つ。シノフの『万葉集』中での用例は、「見つつ偲ふ」という類型表現を取るものが多く見られ、「見る」こととの関係において捉えるべきことが知れる。それに比してオモフは自らの内面に対象を思い描く意であることがわかる。

~『万葉語誌』から抜粋引用

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