本文へスキップ

巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2259~2263

訓読

2259
秋萩(あきはぎ)の上(うへ)に白露(しらつゆ)置くごとに見つつぞ偲(しの)ふ君が姿を
2260
我妹子(わぎもこ)は衣(ころも)にあらなむ秋風の寒きこのころ下(した)に着ましを
2261
泊瀬風(はつせかぜ)かく吹く宵(よひ)は何時(いつ)までか衣(ころも)片敷(かたし)き我(あ)がひとり寝む
2262
秋萩(あきはぎ)を散らす長雨(ながめ)の降るころはひとり起き居(ゐ)て恋(こ)ふる夜(よ)ぞ多き
2263
九月(ながつき)の時雨(しぐれ)の雨の山霧(やまぎり)のいぶせき我(あ)が胸(むね)誰(た)を見ばやまむ  [一云 十月しぐれの雨降り]

意味

〈2259〉
 秋萩の上に白露が置くたびに、それを見ながらお慕いしています、あなたのお姿を。
〈2260〉
 いとしいあの子が衣であってほしいものだ。秋風が寒いこのころ、いつも肌身につけていたいから。
〈2261〉
 泊瀬から吹いてくる風は、今宵はいつまで続くのだろう。私は衣を一人きりで敷いて独り寝をしなければならないのに。
〈2262〉
 秋萩を散らす長雨が降り続くこの頃は、ひとり家に居て人恋しく思う夜が多くなる。
〈2263〉
 九月のしぐれの雨で山霧がかかったように、心が晴れないこの気持ちは、いったい誰に逢えたら止むのだろう。

鑑賞

 作者未詳歌5首。2259は「露に寄す」歌。「見つつぞ偲ふ」の「つつ」は継続、「ぞ」は強意の係助詞で「偲ふ」は結びの連体形。「君が姿」は、実際の姿というより、心に浮かぶ面影・記憶としての姿。「白露」に男の姿を偲ぶ女の歌ですが、露を見ること自体が思慕の契機となっているのが特徴的で、白露の置く夕方が男の訪れて来るべき時間帯だったからでしょうか。

 2260・2261は「風に寄す」歌。
2260の「衣にあらなむ」の「なむ」は願望の助詞で、衣であってほしいという大胆な譬喩。「下に着ましを」の「下に着る」は、肌着として着る意。寒い秋風の吹くにつけて、いとしい人と離れている侘しさをひしひしと感じている男の歌であり、恋人を「衣」に見立てることで、離れがたい密着願望を直接的に表しています。婉曲を排し、素直な願望として詠む点に万葉歌人の率直さが表れていると言えます。

 
2261の「泊瀬風」は、泊瀬から吹いてくる風、または泊瀬の地を吹く風。「泊瀬」は、奈良県桜井市初瀬。「かく吹く宵は」は、このように激しく吹く夜は。「何時までか」は、いつまで続くのかという嘆きの疑問。「衣片敷き」は、自分の衣だけを敷いて寝ることで、本来二人で敷くべき衣を一人で用いる孤独の象徴。泊瀬あたりに住んでいる、あるいはその近くに旅寝している男の感慨の歌とされます。

 2262・2263は「雨に寄す」歌。
2262の「長雨(ながめ)」は、ナガアメの約。「長雨」は「眺め」「嘆き」にも通じ、感情的な含みも持ちます。「降るころは」は、季節の移ろいを示す表現であると同時に、心情の変化の時期を示唆しています。「恋ふる夜ぞ多き」の「ぞ」は強意の係助詞で、「多き」はその結びの連体形。秋の長雨の物寂しさの中で、ひとり眠れず恋に沈む夜の多さを静かに詠んでいる歌であり、萩が散り、雨が降り続くという自然の変化が、そのまま恋の盛りを過ぎた寂しさと重なり合っています。

 
2263の「九月」は、旧暦九月で、晩秋にあたります。「時雨」は、降ったりやんだりする晩秋から初冬の雨で、不安定な心情の象徴。「山霧」は、雨の後に立ちこめる霧。上3句は「いぶせき」を導く譬喩式序詞。「いぶせき」は、うっとうしい、心が晴れない。「誰を見ばやまむ」は、誰に逢えたらこの思いは止むのだろうの意で、恋人以外には癒やされないことを暗に示す反語的疑問。秋の深まりとともに募る恋の鬱屈を、重苦しい自然現象に重ねて表現した一首であり、2首ともに女の心と見られます。
 


ながめ(長雨)

 「ながあめ」の約で、何日も降り続く雨のこと。『万葉集』では、「長雨」「霖雨」と表記される。「長雨」の月は陰暦五月と九月で、どちらも稲作にとって大切な、神の来臨を迎える聖なる月とされた。そこで、男女は物忌みのために家に隠(こも)り、互いに逢わないのを原則とした。これを、古来「長雨忌(ながめい)み」「雨隠(あまごも)り」と称する。そもそも、雨に濡れること自体が禁忌とされたため、現実にも男は女のもとを訪れることはできない。そこで、「長雨」を詠み込む歌には、性的な不満足に起因する鬱陶しい気分を歌うものが多い。

~『万葉語誌』から抜粋引用

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。