| 訓読 |
2264
蟋蟀(こほろぎ)の待ち喜ぶる秋の夜を寝(ぬ)る験(しるし)なし枕(まくら)と我(わ)れは
2265
朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)に鳴くかはづ声だに聞かば我(あ)れ恋ひめやも
2266
出(い)でて去(い)なば天(あま)飛ぶ雁(かり)の泣きぬべみ今日(けふ)今日(けふ)と言ふに年ぞ経(へ)にける
2267
さを鹿(しか)の朝(あさ)伏(ふ)す小野(をの)の草(くさ)若(わか)み隠(かく)らひかねて人に知らゆな
2268
さを鹿の小野の草伏(くさぶ)しいちしろく我(わ)が問はなくに人の知れらく
| 意味 |
〈2264〉
コオロギがあんなに喜んで鳴きたてる秋の夜長なのに、あなたはちっとも来てくれない、私は枕と二人っきりです。
〈2265〉
蚊火屋の陰で鳴くカジカの声を聞くように、せめてあの人の声だけでも聞くことができたなら、こんなにも恋い焦がれたりしない。
〈2266〉
私が出立してしまったら、空飛ぶ雁が鳴くように妻が泣き悲しむだろうと思って、今日は今日はと思っているうちに年を越してしまった。
〈2267〉
牡鹿が朝まで伏している小野の草はまだ若いので隠れ場がないように、二人の仲を隠しきれないで、人に知られるようなことはしないで下さい。
〈2268〉
牡鹿が伏していた小野の草には、はっきりとその跡が残っている。そのようにおおっぴらに彼女に迫ったことはないのに、いつのまにか二人の仲を人が知ってしまった。
| 鑑賞 |
作者未詳歌5首。2264は「蟋蟀(こほろぎ)に寄せる」歌。「蟋蟀」は、キリギリスまたは秋に鳴く虫全般をさすとされます。「蟋蟀」を詠む歌は、集中に7首、巻第8に1首、巻第10に6首あります。「待ち喜ぶる」は、待っていた時を得て喜ぶ意。「枕と我れは」は、独り寝のさまを婉曲に言ったもの。枕を擬人化し、自分と一体の存在として示しています。秋の夜に夫の訪れを待ち侘びている女の歌であり、眠ることもできず独り過ごす寂しさを詠んだもの。「待ち喜ぶる」という本来は歓びを伴う語を用いながら、その実、作者自身は歓びにあずかれないという対照が、より哀感を深めています。「待ち喜ぶる」と「枕と我れは」について、いずれも巧みな句である、と窪田空穂は評しています。また、作家の田辺聖子は、「どこか一拍おいたおかしみがあって、嫋々たる姿態はないかわり、無邪気でお茶目な若い女、思ったことをズバリと口に出して、頬ふくらませて拗ねているおかしさがある」「枕に当たっているところにユーモアがある」と述べています。
2265は「蝦(かはづ)に寄せる」歌。「朝霞」は「鹿火屋」の枕詞。「鹿火屋」は、収穫前の田畑を荒らす鹿や猪を追うために火を焚く小屋とされます。かかり方は未詳で、焚く火から出る煙を、朝霞に見立てているのかもしれません。「蝦」は、カジカガエル。上3句は「声」を導く譬喩式序詞。「声だに」は、せめて声だけでも。「我れ恋ひめやも」は反語表現で、どうして恋などしようか、いや、しない。男の片恋の嘆きの歌ですが、蛙の声を聞いて恋人の声を思い浮かべるというのは、現代の私たちから見ればやや不思議な感覚のように思えます。
2266は「雁に寄せる」歌。「出でて去なば」は、いよいよ立ち去るならば、で、別離が目前に迫った仮定。「天飛ぶ雁の」は「泣きぬ」を導く譬喩式序詞。「泣きぬべみ」は、きっと相手が泣くだろうから。「今日今日と」は、今日こそは出て行こうと。「年ぞ経にける」は、年を越えて新年を迎えたこと。「ける」は、強意の「ぞ」の係り結び。妻を置いて旅に出る前の夫の歌であり、出立の日を延ばすこともできたというのは、公務によるのではなく、出稼ぎの旅のような生活に迫られてのことだったのでしょうか。
2267・2268は「鹿に寄せる」歌。2267の「さを鹿」の「さ」「を」は、接頭語。「鹿」は、牡鹿。「小野」の「小」は接頭語で、人里近い野。「草若み」は、草が若いので。上3句は「隠らひかねて」を導く譬喩式序詞。「隠らひかねて」は、隠れようとしても隠れきれないで。「人に知らゆな」の「ゆ」は受身、「な」は禁止で、人に知られるな。秘めようとしても隠しきれない恋心が、周囲に知られてしまう切なさを詠んでいます。作者は男を「さを鹿」に託し、朝の小野という人目のある場所で、草が若いために身を隠せない情景を描くことで、恋情が自然と外に漏れ出てしまうのを巧みに表現しています。忍んで通って来る男に注意した女の歌とされます。
2268の「草伏し」は、草に伏すこと。上2句は「いちしろく」を導く譬喩式序詞。「いちしろく」は「いと白く」で、はっきりと、目立つほどに。「我が問はなくに」は、求愛していないのに。「人の知られく」の「知られく」は「知れり」のク語法で名詞形。人に知られてしまうことよ。恋していることを公にした覚えはない。それでも、行動や態度の端々に思いが滲み出てしまう――その無意識の告白が、この歌の核心となっています。

係り結び
文中に「ぞ・なむ・や・か・こそ」など、特定の係助詞が上にあるとき、文末の語が終止形以外の活用形になる約束ごと。係り結びは、内容を強調したり疑問や反語をあらわしたりするときに用いられます。
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