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巻第10(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第10-2279~2283

訓読

2279
我(わ)が里に今咲く花のをみなへし堪(あ)へぬ情(こころ)になほ恋ひにけり
2280
萩(はぎ)の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久(ひさ)になりにけるかも
2281
朝露(あさつゆ)に咲きすさびたる月草(つきくさ)の日くたつなへに消(け)ぬべく思ほゆ
2282
長き夜(よ)を君に恋ひつつ生(い)けらずは咲きて散りにし花ならましを
2283
我妹子(わぎもこ)に逢坂山(あふさかやま)のはだすすき穂には咲き出(で)ず恋ひわたるかも

意味

〈2279〉
 我が里に今を盛りと咲く女郎花。その美しい女郎花に、堪え難いけれども、それでもなお恋い焦がれている。
〈2280〉
 萩の花が咲いているのを見ると、あの人にお逢いしないで本当に長い月日が経ったものです。
〈2281〉
 朝露を浴びて盛んに咲いている露草が、日が傾くとともにしおれていくように、私の心も消え入りそうに思われる。
〈2282〉
 長い秋の夜をあの人に恋い焦がれながら生きるのではなく、いっそ咲いて散る花であったらよかったものを。
〈2283〉
 愛しい子に逢うという逢坂山のススキ、そのススキがまだ穂を出していないように、ひっそりと恋い続けている。

鑑賞

 作者未詳の「花に寄せる」歌5首。2279の「今咲く花」は、ちょうど盛りを迎えた花。「をみなへし」は、秋の七草の一つで、可憐さとともに、恋情・女性性の象徴。ここは一人前になった少女の譬え。「堪へぬ情」は、恋うまいとするのに堪えられない心。「なほ恋ひにけり」は、それでもやはり恋してしまった、という自覚と詠嘆。理性で抑えようとしてもなお募る恋心を、秋の花に重ねて詠んだ一首です。オミナエシは秋の盛りに一斉に咲き、野に鮮やかな彩りを添える花であり、その姿は抑えきれずにあふれ出る感情とよく響き合います。

 
2280の「まことも」は、本当に、しみじみと。「久になりにけるかも」の「ける」は、ある事実に初めて気づいた詠嘆の意の、過去の助動詞。「かも」は詠嘆で、久しくなってしまったのだなあ。季節の変化を通して、逢えぬ恋の長さをあらためて思い知らされる心情を詠んだ一首です。「萩の花咲ける」を目にした瞬間、作者は前に会った時から、すでに一つの季節が巡ってしまったことを悟り、ここに、時間の客観的な流れと、主観的な恋の痛みが重ね合わされています。

 
2281の「月草」は、露草の古名。上3句は、月草が午後にはしおれやすいことから「日くたつなへに消ぬ」を導く譬喩式序詞。「日くたつなへに」は、日が傾くにつれて。日暮れ時は男が訪れて来る時であるものの、男はやって来ない。その折の女の嘆きの歌です。伊藤博は、「上3句の序は、今宵は必ず来ると、朝から心躍らせていた期待が日が暮れるとともに空転していくさまを表象しているようだ」と言い、窪田空穂は「恋ということには触れないのみならず、われということさえいわず、ただ露草の状態だけをいってそれをあらわしているので、譬喩ということは完全に超えたもので、いわゆる象徴の歌である」と述べています。

 
2282の「長き夜」は、秋から冬にかけての長い夜。単なる時間の長さではなく、恋人に逢えぬ夜を幾度も重ねる精神的な苦痛を象徴しています。「生けらずは」の「生けり」は「生きあり」の約で、生きていないで、の意。「咲きて散りにし花」は、咲いてすぐに散ってしまう花で、はかない命の比喩。「ならましを」は、~であったらよかったのに、という強い詠嘆。恋の苦しみを抱えながら生き続けることの辛さと、はかなさへの憧れを詠んだ、きわめて切実な一首です。

 
2283の「我妹子に」は、逢うと続き、「逢坂山」にかかる枕詞。「逢坂山」は、京都市と大津市の境にある山。実際には国境の険しい山であり、容易に越えられぬ隔たりを象徴する歌枕でもあります。「はだすすき」は、表皮を被った状態のススキの穂。上3句は「穂には咲き出ず」を導く譬喩式序詞。「穂には咲き出ず」は、秘めた恋心の表現。ススキの花穂の赤みを帯びた色は、恋心に染まる頬の色に通じています。「恋ひわたるかも」は、長く恋い続けることだなあ、という詠嘆。表に出せぬ恋を抱えたまま生き続ける覚悟が示されており、地名・植物・心情が緊密に結びついた、『万葉集』らしい象徴性の高い恋歌です。
 


歌風の変遷について

 『万葉集』は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。

 第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代です。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。

 第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代です。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。

 第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代です。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。

 第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年までです。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代です。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといってよいでしょう。おもな歌人として、家持のほか、大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。

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