| 訓読 |
2284
いささめに今も見が欲(ほ)し秋萩(あきはぎ)のしなひにあるらむ妹(いも)が姿を
2285
秋萩(あきはぎ)の花野(はなの)のすすき穂には出(い)でず我(あ)が恋ひわたる隠(こも)り妻(づま)はも
2286
我(わ)が宿(やど)に咲きし秋萩(あきはぎ)散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
2287
我(わ)が宿(やど)の萩咲きにけり散らぬ間(ま)に早(はや)来て見べし奈良の里人(さとびと)
2288
石橋(いしばし)の間々(まま)に生(お)ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
| 意味 |
〈2284〉
少しでも今すぐにも見たいものだ。秋萩のようにしなやかに振舞っているであろう、あの子の姿を。
〈2285〉
萩の花が咲く野にまじっているるススキ、そのススキがまだ穂を出さないように、私が人知れず恋い続けている隠り妻は、ああ。
〈2286〉
我が家の庭に咲いた萩の花が、散ってしまって実になるようになるまで、それほど長い間、私はあの方にお逢いしていない。
〈2287〉
我が家の庭の萩が咲きました。散らないうちに早くいらしてご覧下さい。奈良の里に住んでいらっしゃるあなた。
〈2288〉
川に飛び石の間に生えるかお花のように、あなたは実のならないあだ花でしかなかった、ずっと付き合ってきたけれど。
| 鑑賞 |
作者未詳の「花に寄す」歌5首。2284の「いささめに」は、少しでも。「見が欲し」は、見たいと願う。「しなひ」は、しなやかにたわんでいるさま。離れている恋人の姿を、今まさに思い描きながら慕う心情を、秋萩の姿に重ねて詠んだ一首であり、冒頭の「いささめに」は、激しい願望を抑え、あくまで慎ましく表現する語ですが、その控えめさゆえに、かえって思いの深さが伝わります。伊藤博は「第4句の『らむ』の効いた歌である。楚々たる佳人の目下の動きに心ときめかす緊張感が伝わってくる。上2句はやや説明的だが、佳作の一つに加えられよう」と評しており、窪田空穂は「軽い気分の歌であるが、実際に即していっているので、魅力のあるものとなっている」と述べています。
2285の「花野のすすき」は、萩の花が咲く野の蔭にまじっているすすき。上2句は「穂には出でず」を導く譬喩式序詞。「穂には出でず」は、思いを表に出さないことの比喩。「恋ひわたる」は、長く恋い慕い続ける。「隠り妻」は、人目を憚って隠れている妻。「はも」は強い詠嘆で、多くは眼前にないものを思い遣る場合に用いられます。人に知られぬまま続けられる秘めた恋の切なさを、秋の野の情景に重ねて詠んだ一首であり、窪田空穂は、「『花野』という美しい語が『隠妻』に気分のつながりを感じさせる」と述べています。
2286の「宿」は、家の敷地・庭先。季節の移ろいを尺度として、恋人に逢えぬ時間の長さと虚しさを詠んだ一首です。秋萩は、咲く時期が短く、やがて散って実を結ぶ植物であり、その一連の変化を「咲きし」「散り過ぎて」「実になるまでに」と段階的に詠み込むことで、恋人と逢えぬ時間がいかに長く、取り戻せないものであるかが具体的に示されています。
2287の「萩咲きにけり」の「にけり」は、咲いたことへの気づきと感動。「見べし」の「見」は、連用形で、連用形から助動詞「べし」に続けるのは古格とされます。「べし」は、希望の意のもの。「奈良の里人」は、奈良に住む特定の相手を指しています。伊藤博は、「作者は奈良の里以外の地に住んでいるように見えるけれども、相手への皮肉をこめてわざとそう言ったとも解せられる。互いに近くに住みながら音沙汰がないので、わざと遠くに住んでいるような表現を取ったのかもしれないのである。そう見ると、第4句の『早来て』も生きてくる」と述べています。
2288の「石橋」は、川の浅瀬に並べた飛び石。「かほ花」はどの花であるか未詳で、昼顔、朝顔、杜若、むくげなどの説や、単に美しい花という説があります。『万葉集』に「かほ花」が詠まれた歌は4首あり、「容花」「貌花」とも書かれます。国語学者の大槻文彦が明治期に編纂した国語辞典『言海』によれば「かほ」とは「形秀(かたほ)」が略されたもので、もともとは目鼻立ちの整った表面を意味するといいます。上3句は「花にしあり」を導く譬喩式序詞。「し」は、強意の副助詞。「ありつつ見れば」は、ずっとこうして付き合って見ていると、の意。相手がうわべだけの不誠実な人間だということが分かったと言っています。

歌風の変遷について
『万葉集』は、5世紀前半以降の約450年間にわたる作品を収めていますが、実質上の万葉時代は、舒明天皇が即位した629年から奈良時代の759年にいたる130年間をいいます。その間にも歌風の変遷が認められ、ふつうは大きく4期に分けられます。
第1期は、「初期万葉」と呼ばれ、舒明天皇の時代(629~641年)から壬申の乱(672年)までの時代です。大化の改新から、有間皇子事件・新羅出兵・白村江の戦い・近江遷都・壬申の乱にいたる激動期にあたります。中央集権体制の基礎がつくられ、また、中国文化の影響を大きく受け、天智天皇のころには漢文学が盛んになりました。第1期は万葉歌風の萌芽期といえ、古代歌謡の特色である集団性・口誦性が受け継がれ、やがて個の自覚を見るようになります。おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子・藤原鎌足などがあげられます。
第2期は、平城京遷都(710年)までの、天武・持統天皇の時代です。壬申の乱を経て安定と繁栄を迎えた時代で、歌は口誦から記載文学へ変化しました。万葉歌風の確立・完成期ともいえ、集団から個人の心情を詠うようになり、おおらかで力強い歌が多いのが特徴です。おもな歌人として、持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子・穂積皇子・但馬皇女・石川郎女・柿本人麻呂・高市黒人・長意吉麻呂などがあげられます。
第3期は、山部赤人と山上憶良の時代で、憶良が亡くなる733年までの時代です。宮廷貴族の間に雅やかな風が強まり、中でも山部赤人は自然を客観的にとらえ、優美に表現しました。一方、九州の大宰府では、大伴旅人・山上憶良が中心となって筑紫歌壇を形成、また、高橋虫麻呂は東国に旅して伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が活躍した時代でもあります。
第4期は、大伴家持の時代で、最後の歌が詠まれた759年までです。国分寺の創建、大仏開眼などもありましたが、藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変など、政治が不安定になった時代です。万葉歌風の爛熟期といえ、歌風は知的・観念的になり、生命感や迫力、素朴さは薄れてきました。平安和歌への過渡期の様相を示しているといってよいでしょう。おもな歌人として、家持のほか、大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子などがあげられます。
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