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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2380~2384

訓読

2380
はしきやし誰(た)が障(さ)ふれかも玉桙(たまほこ)の道(みち)見忘れて君が来(き)まさぬ
2381
君が目を見まく欲(ほ)りしてこの二夜(ふたよ)千年(ちとせ)のごとも我(あ)は恋ふるかも
2382
うち日さす宮道(みやぢ)を人は満ち行けど我(あ)が思ふ君はただひとりのみ
2383
世の中は常(つね)かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり
2384
我(わ)が背子(せこ)は幸(さき)くいますと帰り来(く)と我(あ)れに告(つ)げ来(こ)む人も来(こ)ぬかも

意味

〈2380〉
 ああ悔しい、いったい誰が邪魔をしているのでしょう。通い慣れた道もお忘れになってしまったのか、あの人は一向にいらっしゃらない。
〈2381〉
 あなたのお顔が見たくて、この二晩というもの、千年も経ったかのように私は恋い続けています。
〈2382〉
 都大路を人が溢れるほどに往来しているけれど、私が思いを寄せるお方はたったお一人っきりです。
〈2383〉
 世の中は思うようにいかないのが常だと思ってみるけれど、一方では忘れられずに、やはり恋していることだ。
〈2384〉
 あの方はご無事でいらっしゃいます、まもなく帰って来られますと、告げてくれるだけの人でいいから、来てくれないものか。

鑑賞

 『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2380の「はしきやし」は、ここは、ああ悔しい、の意で独立句。「障ふれ」は、邪魔をされる。「かも」は、疑問の係助詞で「来まさぬ」に続きます。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「道見忘れて」は、道を見失って、道を忘れて。物理的な道だけでなく、自分のもとへ通うという「心の習慣」が途切れたことを示唆します。「来まさぬ」は、「来ない」の尊敬語。斎藤茂吉はこの歌を評し、「気が利いていてなかなかおもしろい。その想像も今から見れば幼稚だが、若い女性に言われると、甘美の声と共に力強くなってくるのであり、また『道見忘れて』などの小味のところも腑に落ちで来てくるのである」と述べています。

 
2381の「目」は、顔、姿。「見まく欲りして」の「見まく」は「見る」のク語法で名詞形。見たいと思って。原文「見欲」で、ミマクホシキニ、ミマクホシケクなどと訓むものもあります。「二夜」は、逢って後、またの逢いを待った二夜。「千年のごとも」は、千年も経ったかのように。この歌について窪田空穂は、「夫の来るのを待つ心で、例の多いものである。『この二夜』がじつに働きをもっている。実際を捉えての語で、事としては何事でもないが、実際であるがゆえに、異常の働きあるものとなっているのである。作者の手腕である」と述べています。

 
2382の「うち日さす」は「宮」の枕詞。「宮道」は宮廷に通う道のことで、藤原京の都大路とされます。「人は満ち行けど」は、人はたくさん通っているけれど。「我が思ふ君」は、私が愛し、心に想い続けているあなた。官人の妻が、朝、出仕して宮道を行く夫を捉えての歌でしょうか。あるいは斎藤茂吉は、「都の少女や青年などが揃って歌い且つ相当に感応した歌のように思える」と言い、作家の田辺聖子は次のように述べています。「愛の不思議にはじめて遭遇しておどろく、そのさまがういういしいので、まだ十代の恋だろうか。素直なおどろきが、忘れがたい思いを残す。『万葉集』には強い輝きを放つ大粒の宝石も多いが、こんなに小粒のダイヤのような、愛らしいのも多い」。また佐佐木信綱は、巻第13-3249の「敷島の大和の国に人二人ありとし思はば何か嘆かむ」と「並ぶべき佳作」と評しています。

 
2383の「世の中」は、単なる社会のことではなく、多くの場合、男女の仲、恋の道を指します。「常かくのみ」は、いつもこのように(ままならない)ものだ。「はたた忘れず」の「はた」は、その反面、一方では、どうしても。「た忘れず」の「た」は、接頭語。原文は「半手不忘」で、ハタワスラレズ、カタテワスレズなどと訓むものもありますが、用字から意味は察せられる語です。「恋ひにけり」の「けり」は、完了し存続している事象に対して、今それに気づいた気持ちを表す用法で、その驚きが強いときには詠嘆の意も生じます。この結びには、半ば呆れたような、しかしどうしようもない自分を受け入れるような、深い吐息が感じられます。恋の普遍的な抗いがたさを見事に捉えており、男の歌とも女の歌ともとれる歌です。

 
2384の「我が背子」の「背子」は、女性から親しい男性を呼ぶ称。ここは夫。「幸くいます」は、無事でいらっしゃる、お元気でいらっしゃる。「帰り来と」は、帰って来ると。原文「遍来」をカヘリキテと訓み、上掲の解釈とは別に、「夫の無事を告げる人が何遍も帰って来て」のように解するものもあります。「告げ来む人」は、知らせに来てくれる人。使者や、あるいは偶然事情を知っている人。「来ぬかも」の「ぬかも」は、願望を含む強い詠嘆。夫を遠い旅に遣って留守を守り、ひたすら無事の知らせを待っている妻の心情を歌った歌ですが、実際にそれを知らせてくれる人があるわけではなく、そうした人がいるのを空想しているものです。
 


藤原京

 藤原京は、飛鳥京の西北部、現在の橿原市の位置にあった日本初の都城です。 南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路と東西の大路を碁盤の目のように組み合わせて左右対称とする「条坊制」を、日本で初めて採用した唐風都城です。近年の研究では、東西約5.3km、南北約4.8kmに及ぶ広大な範囲であったことが判明しており、のちの平城京や平安京を凌ぐ規模であった可能性も指摘されています。

 藤原京への遷都は、天武天皇が構想し、その遺志を継いだ持統天皇によって実現されました。それまでの都が天皇の代ごとに移り変わる「宮」であったのに対し、藤原京は、持統天皇8年(694年)から和銅3年(710年)まで、持統・文武・元明天皇の3代にわたり16年間続きました。 701年には「大宝律令」が制定され、藤原京は、法に基づいた中央集権国家の象徴としての役割を担いました。

 藤原宮は、約900m四方の区画に、内裏、大極殿、朝堂院が南北に並び、その両側に官衛がありました。香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の「大和三山」に囲まれた中心地に位置しています。この配置には、風水的な思想や宗教的な意味合いがあったと考えられています。宮殿の建物に初めて本格的に瓦が使われたのも藤原京の特徴です。現在、大極殿跡に「大宮土壇」と呼ばれる基壇が残っています。宮殿造営のための用材は、近江国の田上山で伐り出され、筏に組まれて、宇治川と木津川の水域を利用して泉津まで運ばれ、陸路で奈良山を越えて、再び佐保川の水運を利用して、藤原宮の建設現場まで運ばれました。

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古典に親しむ

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