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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2385~2388

訓読

2385
あらたまの五年(いつとせ)経(ふ)れど我(あ)が恋の跡(あと)なき恋のやまなくあやし
2386
巌(いはほ)すら行き通るべきますらをも恋といふことは後(のち)悔(く)いにけり
2387
日並(ひなら)べば人知りぬべし今日(けふ)の日は千年(ちとせ)のごともありこせぬか
2388
立ちて居(ゐ)てたづきも知らず思へども妹(いも)に告げねば間使(まつかひ)も来ず

意味

〈2385〉
 もう五年も経ってしまったが、叶うことのない私のむなしい恋が終わらないのはなぜだろう。
〈2386〉
 岩をも貫いて進むことができる勇猛で強い男子であるのに、恋のこととなると、くよくよと後で悔いるばかりだ。
〈2387〉
 こうして逢う日が度重なれば人目についてしまうでしょう。だから、今日一日が千年のように長くあってほしい。
〈2388〉
 居ても立ってもいられず、ただおろおろとあの子に恋い焦がれているが、この思いを告げていないので、使いの者もやって来ない。

鑑賞

 『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。2385の「あらたまの」は「年」の枕詞。原文「麁玉」の「麁」は、粗いこと、粗末なことを意味する語で、「あらたまの五年」は、粗末な玉のように、何の光もなく取り柄もなく過ぎて行った期間として印象づけられます。「我が恋の」の原文「吾戀」で、アガコフル、ワガコフルなどと訓むものもあります。「跡なき恋」は、空しくはかない恋。「やまなくあやし」の原文「不止恠」で、ヤマズアヤシモ、ヤマナクモアヤシなどと訓むものもあります。「あやし」は、不思議だ、変だ。5年もの間、片思いを続けている男の歌であり、窪田空穂は、「片恋の歌として、品位あり、貫録のある珍しい歌」と評しています。

 
2386の「巌すら行き通るべき」は、大きな岩であっても突き抜けて通るような。超人的な力や強い意志の象徴です。「ますらをも」は、ますらをでさえ。『万葉集』において「ますらお」は、勇ましく、理性的な存在として描かれます。そんな感情に流されないはずの強者が、「恋にだけは勝てなかった」と吐露する姿は、恋がいかに人間の理知や体力を超越したものであるかを逆説的に強調しています。斎藤茂吉は、「自分の恋の苦しみをいうのに、自分を健男に見たてて、心情を強めて表現している。その誇張は稍ともすれば概念的になりがちであるが、この場合は、詠嘆が強いので左程にそれが目立たない」と述べています。

 
2387の「日並べば」は、幾日も日が重なれば。原文は写本によって相違し、「日暮れなば」「日せまらば」などと訓むものもあり、解釈もそれぞれに異なります。「人知りぬべし」は、人がきっと知るであろう。「千年のごとも」は、千年のようにも。「ありこせむかも」の「ありこす」は、あってほしい、「も~ぬかも」は、願望。斎藤茂吉は「ヒナラベバといえば、至って分かりよくなるが、歌は平凡になるし、どうかと思う」と言っており、「日暮れなば」なら、昼間、女の家で、家人の不在中に密会しているという複雑事情の歌となります。

 
2388の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。落ち着きを失い、そわそわとしている動作を指します。「たづき」は、方法、手がかり。「間使」は、二人の間を往来する使い。相手の女性に自分の思いを告げていないのだから使いが来ないのは当たり前で、そこに笑いを誘おうとしている歌でしょうか。それとも、「言えないけれど、察してほしい」「奇跡のように連絡が来てほしい」という、恋の初期段階特有の身勝手で孤独な期待感でしょうか。窪田空穂は、「女と関係は結んだが、その周囲の者から強く隔てられ、便りをすることさえできない状態になって、ひとり懊悩している歌」としています。
 


古代の人々の名前

 『古事記』の垂仁天皇の段に「凡(およ)そ子の名は、必ず母の名(なづ)くるに、・・・」と述べられているが、実際には誰が名付ける習慣であったのかはわからない。奈良時代の戸籍に見える名前を眺めていると、いろいろと興味深いことに気づく。

 たとえば、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大島郷の戸籍には、与理売(よりめ)の次の子が古与理売(こよりめ)、その次の子が真与理売(まよりめ)、さらにその次の子が若与理売(わかよりめ)、といった名前が見える。二人目以降には「古」や「真」や「若」をつけただけというような兄弟は多い。それと、動物にちなむ名前が多いのも、この時代の特徴であろうか。戸籍や計帳の作成にあたって、実際には役人が戸ごとに調査してまわったと考えられるが、名前を書き上げていく際に、役人が便宜上、名前をつけてしまった可能性はある。動物にちなむ名前は、生まれた年の干支(えと)によってつけたとも考えられるが、必ずしも生まれた年の干支と一致しない例もある。あるいは、それぞれの動物のイメージを、その子の理想的な姿として名前に託したのであろうか。

 なかには、とんでもない名前をつけられてしまった者もいる。大宝2年(702年)の御野国味蜂間郡春部里の戸籍には、「阿弥多(あみだ)」と「无量寿(むりょうじゅ)」の兄弟が見える。親がよほど仏教に関心があるのか、それとも役人が戸籍に名前を記録する際にふざけたのであろうか。神護景雲2年(768年)には、政府が「仏菩薩」と「聖賢之号」を名前に用いてはならないという命令を出して、仏にかかわるような名前を禁止した。「阿弥多」や「无量寿」は、こうした名前の事例として変更させられただろう。

 当時は男性には「〇〇まろ」、女性には「〇〇め」という名前が多い。「まろ」は「麻呂」「万呂」「萬侶」などと書かれ、「め」も「売」「女」「咩」など、いく通りかの用字があるが、どれでも通用する。音が合っていればどんな漢字でもよく、読み方が定まっているだけで、表記は自由であった。

 「麻呂」は8世紀の前半までは、「麻呂」と2文字に分けて書いていたが、よく使われたために、8世紀末ごろには1文字で「麿」と書かれることが多くなる。また、平安時代になると「丸」と書かれることが多くなり、中世には男性名として「〇〇丸」という書き方のほうが定着する。「牛若丸」は、平安時代の終わりの人物であったからそういう名前なのであって、彼が奈良時代に生きていたとしたら、「牛若麻呂」であったかもしれない。

~『律令国家と万葉びと』から引用

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