| 訓読 |
2522
恨(うら)めしと思ふさなはにありしかば外(よそ)のみぞ見し心は思へど
2523
さ丹(に)つらふ色には出(い)でず少なくも心のうちに我(わ)が思はなくに
2524
我(わ)が背子(せこ)に直(ただ)に逢はばこそ名は立ため言(こと)の通(かよ)ひに何かそこゆゑ
2525
ねもころに片思(かたも)ひすれかこのころの我(あ)が心どの生けるともなき
2526
待つらむに至らば妹(いも)が嬉(うれ)しみと笑(ゑ)まむ姿を行きて早(はや)見む
| 意味 |
〈2522〉
恨めしいと思っている折だったので、関係ないかのように素知らぬ顔で見ていました。心では思っていましたが。
〈2523〉
頬が赤くなるほど顔色に出したりはしません。けれど、心の中では、ちょっとやそっとの思いでいるわけではありません。
〈2524〉
あの方に直接逢ったならば評判も立つでしょう。でも、ただ言葉をやりとりしただけで何でそこまで噂が立つのでしょう。
〈2525〉
心の底から片思いをしているせいなのか、心の張りが衰えて、生きているように思えません。
〈2526〉
今か今かと待っているところへ私が行き着いたら、彼女は嬉しがってほほえみかけてくれよう。その姿を早く行って見たい。
| 鑑賞 |
作者未詳の「正述心緒(正に心緒を述ぶる)」歌5首。2522の「思ふさなはに」の原文は「思狭名盤」で難訓とされ、「さなは」は、真っ最中、折、と解する説のほか、オモフサナイハと訓んで、大きな岩(障害の比喩)と解する説、オモホサクナハと訓んで、思っているあなたは、などと解する説があります。「ありしかば」は、あったので。「外のみぞ見し」の「外」は関係がないことで、他人のように(冷淡に、あるいは遠くから)見てしまった。「心は思へど」は、心の中では(相手を)慕っているのだけれど。拗ねた女が自分の素振りについて弁解する歌とされます。
2523の「さ丹つらふ」は、顔に照り映える意で「色」にかかる枕詞。「色には出でず」は、顔色や表情には出さず。「少なくも心のうちに我が思はなくに」は、ちょっとやそっとの思いではない、すなわち大いに思っている意。二重否定による強い肯定を意味します。この時代から、恋を周囲に悟られないように隠す「忍ぶ恋」は、一段上の誠実さや精神性の象徴とされてきました。感情を露わにしないのは、相手を想うがゆえの自制であり、その分、心の中に溜まった想いは純度が高く、重いものになります。この歌には、自分の真心を信じているという静かな自負が溢れています。
2524の「直に逢はばこそ」は、直接逢ったのなら(まだしも)。「~ばこそ」は「~ならともかく」という強い条件の強調。「名は立ため」の「め」は推量で、噂が立つのも仕方がないだろう。「言の通ひ」は、言葉を通わすこと、伝言のための使者の往来。「何かそこゆゑ」の「そこ」は「その」の古語。何だってそのゆえに。この歌の面白さは、「そんな理由で噂を立てるなんて理不尽だ」という「理屈による抗議」の形をとりながら、その実、「本当は逢いたい」という切実な思いを逆説的に表現している点にあります。「直に逢はばこそ」という仮定は、「噂を立てるなら、実際に逢わせてほしいものだ」という皮肉とも、「逢いもしないのに噂だけ流れるのは割に合わない」という不満とも取れます。どちらにせよ、作者の意識の焦点は、噂そのものよりも「あなたに直接逢うこと」に向いています。
2525の「ねもころに」は、心を込めて。「心ど」は、心の張り、しっかりした心。「片思ひすれか」は、片思いをしているからだろうか。「生けるともなき」は、生きている心地もしない。生きた心地がしない。ただし、「と」は助詞ではなく利心(とごころ)のトとする見方があります。「恋の喜び」が完全に削ぎ落とされ、「恋の重み」によって自分自身が磨り減っている様子をうたった歌であり、冒頭の「ねもころに」という言葉は、本来はポジティブな文脈でも使われますが、ここでは「度を超えて熱心に」という意味で機能しています。寝ても冷めても相手のことばかりを考え続けている、その過剰な集中が、自分を追い詰めているようです。窪田空穂は、「取材の関係もあるが、説明一点張りで、全く具象化のない歌である」と評しています。
2526の「待つらむに」は、待ってように、待っているところへ。「至らば」は、たどり着いたなら。「嬉しみと」は、嬉しいと思って、嬉しがって。「笑まむ姿を」は、ほほえむであろうその姿を。これから妻の許に行こうとしている男の気分を歌った歌です。結句の「行きて早見む」には、一刻も猶予できないという強い欲求が込められており、読み手まで心が浮き立つような「幸福の予感」が感じられる歌です。

しのに
シノニということばは難解である。古くから、さまざまな解釈がなされてきた。偲ぶ、繁く、萎れ乱れる、しなえうらぶれるなどである。現在では、「心が深く感動するほどに」や、「心もひたすらに」、また、シノグとの関係を重視して「ぐっと」と訳されている他、シノフとの関係を重視する理解もある。いまだに定説を見ないことばである。『万葉集』では、全ての例を網羅的に捉えにくいようだ。
シノニは『万葉集』中、10例見られるが、そのうち9例が「心もしのに」という形であり、定型表現であったことが知られる。
~『万葉語誌』から引用
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