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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2532~2536

訓読

2532
おほならば誰(た)が見むとかもぬばたまの吾(わ)が黒髪を靡(なび)けて居(を)らむ
2533
面(おも)忘れいかなる人のするものぞ我(わ)れはしかねつ継(つ)ぎてし思へば
2534
相(あひ)思はぬ人のゆゑにかあらたまの年の緒(を)長く我(あ)が恋ひ居(を)らむ
2535
おほろかのこころは思はじ我(わ)がゆゑに人に言痛(こちた)く言はれしものを
2536
息(いき)の緒(を)に妹(いも)をし思へば年月(としつき)の行くらむわきも思ほえぬかも

意味

〈2532〉
 通り一遍に思うなら、いったい誰に見せるために、私の黒髪を靡かせていましょうか。
〈2533〉
 顔を忘れるなんてどんな人がすることでしょう、私にはできません、ずっと恋してばかりいるので。
〈2534〉
 私のことを思ってもくれない人のために、幾年も長く、私は恋い焦がれていなければならないのか。
〈2535〉
 あの人に対していい加減な気持ちは持つまい。私のせいで他人からひどく噂されたのだもの。
〈2536〉
 命がけであの子のことばかり思っているので、年月が過ぎて行くけじめもわからないことだ。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2532の「おほならば」は、通り一遍に思うなら、いい加減な気持ちであったなら。原文「凡者」で、オホヨソハと訓んで、大体は、と解するものもあります。「誰が見むとかも」の「かも」は疑問で、いったい誰に見せようとして。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「黒髪を靡けて」は、寝床に横たわっているさま。女性が黒髪を敷き靡かせて独り寝するのは、男性を待つ気持の表現。窪田空穂は、「夫の来訪を婉曲に、上品に、しかし媚態をもって促している歌である」と述べています。

 
2533の「面忘れ」は、(相手の)顔を忘れること、面影を忘れること。「いかなる人の」は、いったいどのような人が。「するものぞ」は、することができるものなのか。「我れはしかねつ」は、私にはとてもできない。「継ぎてし思へば」の「し」は、強意の副助詞。絶えず思い続けてばかりいるので。作者は、忘れることをひとつの技術や能力のように捉え、それを自分には不可能なこととして突き放しています。「面忘れ」には、単に記憶から消えるのではなく、意識的に忘れて楽になるというニュアンスが含まれており、世の中には器用に「面忘れ」をして、恋の苦しみから逃れられる人がいるのかもしれないが、自分はそうではない、と対比させています。夫から疎遠にされている女が、夫に訴えて贈った歌とされます。

 
2534の「相思はぬ」は、私のことを思ってもくれない。「人のゆゑにか」は、そんな人のためにだろうか。「か」は疑問・嘆息。「あらたまの」は「年」の枕詞。「あらたま」は、宝石・貴石の原石を指すものと見られますが、掛かり方は未詳。一説に年月が改まる意からとも。「年の緒」は、長い年月を緒に譬えた語。「我が恋ひ居らむ」は、私は恋し続けていくのだろうか。結びの「居らむ」は、自分の未来をどこか他人事のように予測する響きがあります。「これからも、私はこうしているのだろうか(いや、そうするしかないのだろうが)」という、諦念に近い深い溜息が、この一首を支配しています。男女どちらの歌とも取れます。

 
2535の「おほろか」は、いい加減。原文「凡乃」で、オホヨソノ、オホカタノなどと訓むものもあります。「こころは思はじ」の原文「行者不念」で、ワザハオモハジ、ワザトハモハジなどと訓むものもあります。「言痛く」は、うるさく、ひどく。窪田空穂は、「夫である男が、その事に対してある時思ったことである。その時男は、女の何らかの振舞について不満を感じ、腹立たしく咎めようと思ったのだが、思い返して、女の所行のすべてにわたっては気にしまい。とにかく一時はわがために、人に甚しく非難された女なので、それに免じて勘弁しようと思った心である」と述べていますが、女の歌とも取れます。

 
2536の「息の緒に」は、命がけで、呼吸の続く限り絶え間なく。「妹をし思へば」の「し」は、強意の副助詞。「行くらむわき」の「わき」は、けじめ、区別。過ぎ去っていくけじめ(区別)も。片思いの苦しみを言っている男の歌ですが、結びの「思ほえぬかも」には、単なる混乱ではなく、一種の「恋の陶酔」が滲んでいます。時間の流れさえ忘れるほど何かに没頭できることは、苦しみであると同時に、純粋な幸福の極致でもあります。
 


『万葉集』は誰が書いたのか

 『万葉集』の歌は、漢字の音や訓を利用して日本語を書き表すために利用された万葉仮名で書かれています。そして、『万葉集』は本当に日本人が書いたものなのかという疑問が提起されています。現代の私たちが使用している平仮名は平安時代に成立した文字ですが、そのころの平仮名には、長らく濁音を表す文字がありませんでした。ところが『万葉集』には「泥(で)」というような濁音を専門に表す万葉仮名が使用されています。また、この時代の母音の一部には2種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていました。この2種類の発音それぞれに使用された万葉仮名の中国音の違いは非常に微妙なものであり、日本人が簡単に区別できるものではないといいます。つまり、万葉仮名の使用者たちは、とうてい日本人とは考えられない状況が確認できるというのです。

 『万葉集』に収められているものの大半は和歌であり、もちろん日本語で作られています。しかし、その日本語を表記するのに用いられたのは漢字を基にした万葉仮名であり、国語学者たちの研究成果からすれば、万葉仮名を使用できるのは中国の漢字音を熟知した人物であった可能性が高いとされます。そうしたことから、編者のなかに、中国人とまでは言わなくとも、渡来系の人物や渡唐経験者がいたのであろうと考えられています。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。