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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2560~2564

訓読

2560
人も無き古(ふ)りにし郷(さと)にある人を慰(めぐ)くや君が恋に死なする
2561
人言(ひとごと)の繁(しげ)き間(ま)守(も)りて逢ふともやなほ吾(わ)が上(うへ)に言(こと)の繁けむ
2562
里人(さとびと)の言縁妻(ことよせづま)を荒垣(あらかき)の外(よそ)にや吾(あ)が見む憎くあらなくに
2563
人目(ひとめ)守(も)る君がまにまに我(われ)さへに早く起きつつ裳(も)の裾(すそ)濡れぬ
2564
ぬばたまの妹(いも)が黒髪(くろかみ)今夜(こよひ)もか我(あ)がなき床(とこ)になびけて寝(ぬ)らむ

意味

〈2560〉
 人もあまりいなくなったこの寂しい旧都に残っている私に、哀れにも恋死をさせるおつもりですか。
〈2561〉
 人の噂のうるさい隙間を見はからって逢ったとしても、やはり私の上には噂が絶えないのだろうか。
〈2562〉
 里人たちが私の妻だと噂するその人を、私はよそながら見ていなければならないのか、憎からず思っているのに。
〈2563〉
 人目を気にして早出するあなたに従って、私まで早起きしてきたので、裳の裾が露に濡れてしまいました。
〈2564〉
 妻の黒髪、ああ今夜も、私がいない床に靡かせて寝ているのだろうか。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2560の「人も無き」は、住む人も無い。「古りにし郷」は旧都で、奈良遷都後の藤原京の称とされます。「ある人を」は、(そんな場所でひっそりと)生きている私を、という意味で、作者自身のこと。「慰くや」は、かわいそうに、哀れにも。「や」は疑問の係助詞で、「死なする」がその結び。「死なする」は使役的な表現で、「(あなたのつれなさが)私を死なせるのだ」と相手に責任を問う激しい表現。官人の夫は新都に移り、旧都に残った妻が、疎遠になる寂しさを訴えた歌とされます。

 
2561の「人言」は、世間の噂。「繁き間守りて」は、噂が途切れる隙をうかがって。「逢ふともや」は、(ようやく隙を見つけて)逢ったとしても、やはり~だろうか、という疑念・反語的な響き。「なほ」は、やはり、いっそう。女の歌で、人の噂がうるさいのをを気にしながらも、隙をねらって逢い、それがさらに噂を招くのではと恐れています。この時代、噂は単なるゴシップではなく、人の魂をすり減らし、時には社会的な地位や縁談を壊すほどの力を持っていました。この歌からは、細心の注意を払って密会を重ねているにもかかわらず、どこからか漏れてくる噂に追い詰められている作者の心理が伝わります。

 
2562の「言縁妻」は、言によって縁(よせ)られた妻という意味で、世間の噂で、あいつの妻だと言い立てられている女を指します。「荒垣の」は「外」の枕詞。「外に」は、無関係に。「や」は、疑問の係助詞。「憎くあらなくに」は、憎からず思っているのに。本当はまだ深い仲ではないのに、人々が根拠もなく、あの男はあの女が好きなのだとか、あの二人はできているのではないかとの噂を立てられ、その女が気になって憎からず思うようになった。なのに垣の外から、つまり離れて見ているだけだと嘆いている歌です。

 
2563の「人目守る」は、人目を憚る、気にする。「君がまにまに」は、君に従い。人目を避けて早々に帰ろうとする君の都合に合わせて、という意味。「吾さへに」は、私までも。「裳の裾濡れぬ」の「裳」は、女性が袴の上につけた、後ろに長く引くスカート状の衣服。「濡れぬ」は、道の草に置く露に濡れた、で、見送りをした意。早朝に帰って行く夫を見送ってきた妻の歌で、朝露で裾が濡れるという描写は、まだ外が暗く、草木に露が降りている時間帯であることを示唆します。同時に、当時の和歌では「袖や裾が濡れる」のは涙の暗喩でもありました。冷たい露の感触と、別れの寂しさが「濡れる」という一語に凝縮されています。

 
2564の「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「今夜もか」は、今夜もまた~なのだろうかという自問自答。「我がなき床に」は、私のいない、彼女一人の寝床に。「なびけて寝らむ」の「なびけて」は、髪がさらりと横たわっている様子。「寝らむ」は、寝ているのだろう(現在推量)。妻の許へ行けなかった男が、その夜の妻のさまを想像している、あるいは旅に出た時の歌とされます。「黒髪」を歌の核に据えることで、読者の目には闇の中に広がる黒髪の艶やかさと、その主である女性の白い肌や、寂しげな寝顔が浮かび上がります。枕詞「ぬばたまの」から始まる色彩の対比が、非常に官能的かつ叙情的な効果を生んでいます。
 


『万葉集』と日本文化

奈良県立万葉文化館のホームページから引用)

 国際化社会・グローバル化した社会に生きている私たちは、つねに自分たちと異なった文明・文化に接する機会を持ちながら生きています。時には文明同士で衝突したり、文化のギャップが顕在化することだってあります。そうした時代状況のなかでは、個別の文化に固有なものと普遍的なものがあることをおたがいに認識しあうことが重要です。

 文化には、文字化して蓄積できるものと、文字化できないものがあります。文字化して蓄積された資料や書物のうち、社会に共有されるべき財産となっているものが古典です。

 『万葉集』は、7世紀と8世紀を生きた日本人の生きた声を伝える歌の全集ともいうべきものです。現在、『万葉集』は古典のなかの古典ともいうべき位置を占め、国民文化の象徴としての役割を果たしています。『万葉集』に日本人の遠い祖先のありのままの声が反映されているかどうかには疑問もありますが、万葉を学ぶことが伝統的短詩系文学の基礎となっていることは疑いないことです。なぜなら、日本人が長く伝えた短歌という詩の形式は、『万葉集』の時代に確立されたものだからです。

 日本の修史事業は、7世紀に始まって、8世紀初頭に「古事記」と「日本書紀」として結実します。この修史事業が行われたのが、日本古代国家の基礎が築かれた時代でした。漢字・儒教・律令・仏教を基とした国作りが急がれ、これらを共通項とする中国文化圏の辺境の一国家として、日本は歩みつづけてゆくのです。天皇を中心とした律令国家が形成されたのは、この時代でした。この時代に形成された国家の運営システムは長く日本社会を規定し、省・大臣という呼称や、道などの行政単位名も長く踏襲されてゆくのです。7~8世紀の歴史を学ぶことは、日本の歴史や文化の基を学ぶことなのです。

 この時期の歌々を収載する歌集こそが『万葉集』です。万葉歌を学ぶことは、日本の国家のグランド・デザインを作った人びとの肉声を聞くことです。この時期の都は、近畿地方のなかでもとくに奈良県に集中していました。飛鳥京(592~694)・藤原京(694~710)・平城京(710~784)はすべて奈良県にあり、奈良県はかつて万葉の都が置かれていた土地ということができるでしょう。

 奈良県は、万葉の都の歴史遺産とともに歩む街であり、『万葉集』のふるさとでもあります。今日の国際化社会において第一に求められているのは、みずからの文化を自覚的に認識し、それを発信して相互理解を深めることです。そういう時代の要請に応えて、全国的・国際的な『万葉集』に関する情報発信拠点を作ろうと私たちは考えました。そこで万葉文化館には、『万葉集』を伝統的な日本画によって理解してもらうための美術館機能、万葉の時代を体感するための博物館機能、『万葉集』の研究と研究情報の蓄積と発信を行う研究所機能が備わっています。万葉文化館は、これらの活動を通じて、『万葉集』と万葉文化の発信をし続けていきたい、と考えています。 

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古典に親しむ

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