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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2565~2569

訓読

2565
花ぐはし葦垣(あしかき)越(ご)しにただ一目(ひとめ)相(あひ)見し子ゆゑ千(ち)たび嘆きつ
2566
色に出でて恋ひば人見て知りぬべし情(こころ)のうちの隠(こも)り妻はも
2567
相(あひ)見ては恋ひ慰(なぐさ)むと人は言へど見て後(のち)にぞも恋ひまさりける
2568
おほろかに吾(われ)し思はばかくばかり難(かた)き御門(みかど)を罷(まか)り出(で)めやも
2569
思ふらむその人なれやぬばたまの夜(よ)ごとに君が夢(いめ)にし見ゆる [或る本の歌に曰く 夜昼と言はず我(あ)が恋ひわたる]

意味

〈2565〉
 葦の垣根越しに、たった一目見ただけのあの子なのに、繰り返し繰り返し溜息ばかりついている。
〈2566〉
 顔色に出して恋い慕ったなら、人が見咎めて知るだろう、心のうちの隠し妻のことを。
〈2567〉
 お互いに逢うと、人恋しさは紛れると他人は言うけれど、逢って別れた後にこそ愛情がいっそう増してくるものです。
〈2568〉
 いい加減に私があなたのことを思っているのなら、これほど厳しい宮中の御門を抜け出てやって来るものか。
〈2569〉
 私のことを思って下さるからでしょうか。夜ごとにあなたが夢に現れます。(夜となく昼となく私は恋い続けています)

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2565の「花ぐはし」は、花がうるわしいの意で「葦垣」にかかる枕詞もしくは枕詞的修飾語。集中ではこの一例のみ。「葦垣越しに」は、葦を編んで作った垣根越しに。当時の貴族社会では、男女が直接顔を合わせることは稀で、垣根や御簾などの境界線越しに相手を垣間見ることが、恋の始まりの典型的な形(垣間見:かいまみ)でした。「ただ一目相見し」は、たった一目見かけた。原文「直一目相視之」で、「視」は注意してよく見る意の文字で、じっと見つめ合ったことを表すともいいます。「千たび嘆きつ」は、千回もため息をついてしまった、数え切れないほど苦悶したという意味。「一目」に対して「千たび」と数字を対比させることで、一瞬の出来事が一生を左右するほどの大きな悩みになったことを強調しています。

 
2566の「色に出でて」は、顔色に出して。「知りぬべし」は、知ってしまうだろうの意で、強い確信を伴う推量。「情のうちの」は、誰にも言わず、自分の心の中だけに留めている、の意。「隠り妻」は、まだ公表できず人目を避けて隠れている妻。「隠り」は、隠れて見えないものを示すことばで、葦などが茂って水面がよく見えない入江は「隠江(こもりえ)」、草木に隠れて見えない沼は「隠沼(こもりぬ)」、物陰に隠れて流れる水は「隠水(こもりず)」などといいます。「はも」は、文末に用いて、強い詠嘆の意を表す語。恋を公にすることは、

 
2567の「相見ては 恋ひ慰むと」は、直接逢えば、恋しくて苦しい気持ちも落ち着く(慰められる)だろう」ということ。「見て後にぞも」の「ぞも」は、係助詞「ぞ」に感動の終助詞「も」が添ったもので、強い詠嘆と強調。「恋ひまさりける」の「ける」は「ぞ」の結びで連体形。「けり」は、~であることを改めて知った、の意。逢えない時間は「逢いたい、逢えば楽になれる」と信じて疑いません。しかし、いざ逢ってその素晴らしさを再確認し、再び別れの時間を迎えると、逢う前よりも相手への執着が強まり、寂しさが倍増してしまいます。「こんなに好きだったのか」という再発見が、さらなる苦しみを生むという皮肉を描いています。

  万葉時代の恋愛は自由で奔放だったと思われがちですが、今も昔もプロセスが大事であることに変わりはなく、ある段階が来てはじめて公表するものでした。恋愛といえども社会生活の一部ですから、その当時なりのルールがあったわけです。忍ぶ恋をうたう歌や、噂が立つのを極度に恐れる歌が多くみられるのはそのためで、結婚に至るまでの各段階の心情を伝えてくれる『万葉集』は、古代の結婚制度を研究する上で第一級の史料ともなっています。

 
2568の「おほろかに」は、いい加減に。「吾し思はば」の「し」は、強意の副助詞。もし私が(あなたのことを)思っていたならば。「かくばかり」は、これほどに。「難き御門」は、出入りするのが困難な宮廷の門。この「御門」は、単なる物理的な門だけでなく、世間の目や厳しい警護を象徴しています。「罷り出めやも」の「罷り出る」は、貴所から退出する意。「めやも」は反語を表し、(退出して来たり)しただろうか、いや、決してしない、という強い否定を伴う強調。勤務中に宮廷をそっと抜け出して逢引している下級官吏の歌のようです。

 
2569の「思ふらむ」の「らむ」は現在の推量で、(私のことを)思っているのだろう。「その人なれや」は、その人なのだろうか。「や」は、疑問の係助詞。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夢にし見ゆる」の「し」は、強意の副助詞。「見ゆる」は「や」の結びで連体形。「見ゆる」は自発・受身のニュアンスを含み、(自分の意志ではなく、相手の思いの強さによって)自然と現れてしまうという感覚です。夢は霊力の見せるもので、相手がこちらを思うと見えるというのは、根深い信仰でした。
 


『歌よみに与ふる書』

 正岡子規が明治31年に書いた『歌よみに与ふる書』の現代語訳です。

 ―― 仰せの通り、近来和歌は一向に振るわない。正直に申せば『 万葉集』以来、源実朝以来一向に振るわない。実朝という人は三十にも足らず、いざこれからというところで敢え無い最期を遂げられ、誠に残念であった。あの人を今十年も生かしておいたなら、どんなに名歌を沢山残したかも知れない。とにかく第一流の歌人であると存ずる。むやみに柿 本人麻呂・山部赤人のよだれを舐(ねぶ)るでもなく、もとより紀貫之・藤原定家の糟粕(そうはく)を嘗(な)めるでもなく、自己の 本領が屹然(きつぜん)として山岳と高さを争い、日月と光を競うところは、実に恐るべき尊ぶべきで、知らず知らずのうちに膝を屈する思いになる。古来、凡庸な人と評価してきたのは間違いなく誤りであるに違いなく、北条氏を憚って韜晦(とうかい)した人か、さもなければ大器晩成の人ではなかったかと思える。人の上に立つ人で文学技芸に達するような者は、人間としては下等の地にいるのが通例であるが、実朝は全く例外の人に相違ない。なぜかと言うと、実朝の歌はただ器用というのではなく、力量があり見識があり威勢があって、時流に染まらず世間に媚びないところが、例の物好き連中や死に歌を詠む公家たちとはとても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間でなければ、実朝の歌のように力のある歌は詠み出されるはずはない。賀茂真淵は力を極めて実朝を褒めた人だが、真淵の褒め方はまだ足りないように思う。真淵は実朝の歌の妙味の半面を知って、他の半面を知らなかったが故にそうなったのだろう。

 真淵は歌については近世の達見家で、『万葉集』崇拝のところなどは当時にあって実に偉い者だが、私の眼から見れば、なお『万葉集』を褒め足りない心地がする。真淵が「万葉にも善い調があり、悪い調がある」ということをいたく気にして繰り返し言うのは、世の人が『万葉集』の中の詰屈な歌を取って「これだから万葉はだめだ」などと攻撃するのを恐れているかと見える。もとより真淵自身もそれらを善い歌とは思わなかったが故に弱みが出たのだろうか。しかしながら世の人が詰屈と言う『 万葉集』の歌や真淵が悪い調と言う『万葉集』の歌の中には、私が最も好む歌もあると存ずる。それはなぜかと言うと、他の人は言うまでもなく真淵の歌にも私が好むところの万葉調というものが、一向に見当たらないのだ(もっともこの辺の論は短歌についての論と御承知されたい)。真淵の家集を見て、真淵は存外に『万葉集』の分からない人であると呆れた。こう言ったからと言って、全く真淵をけなす訳ではない。楫取魚彦(かとりなひこ:江戸中期の歌人)は『万葉集』を模した歌を多く詠んだが、なおこれと思うものは極めて少ない。それほど古調はなぞらえるのが難しいのかと疑っていたところ、近来私たちが知っている人の中に、歌人ではなくて返って古調を巧みに模倣する人が少なくないことを知った。これによって見ると、昔の歌人の歌は今の歌人ではない人の歌よりも、遥かに劣っているのかと心細くなった。してみると今の歌人の歌が、昔の歌人の歌よりも更に劣っていることはどのように言うべきか。

 長歌のみは、やや短歌とは異なる。『古今集』の長歌などは箸にも棒にもかからないが、かような長歌は『古今集』の時代にも後世にもあまり流行らなかったことが物怪もっけの幸いと思われる。されば後世でも長歌を詠む者には直接『万葉集』を師とする者が多く、従ってかなりの作を見受ける。今日でも長歌を好んで作る者は、短歌に比べれば多少手際よくできる。(御歌会派が気まぐれに作る長歌などは端唄(はうた)にも劣る)。しかしある人は非難して長歌が『万葉集』の模型を離れることができないことを笑う。それももっともではあるが、歌よみにそんなに難しいことを注文すると、『古今集』以後はほとんど新しい歌がないと言わなくてはならない。―― 

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。