本文へスキップ

巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2575~2579

訓読

2575
めづらしき君を見むとぞ左手(ひだりて)の弓(ゆみ)取る方(かた)の眉根(まよね)掻(か)きつれ
2576
人間(ひとま)守(も)り葦垣越(あしがきご)しに我妹子(わぎもこ)を相(あひ)見しからに言(こと)ぞさだ多き
2577
今だにも目な乏(とも)しめそ相(あひ)見ずて恋ひむ年月(としつき)久(ひさ)しけまくに
2578
朝寝髪(あさねがみ)われは梳(けづ)らじ愛(うるは)しき君が手枕(たまくら)触れてしものを
2579
早行きて何時(いつ)しか君を相(あひ)見むと念(おも)ひし情(こころ)今ぞ和(な)ぎぬる

意味

〈2575〉
 なかなかやって来ないあなたに逢えないかと、左手の弓を取る方の眉を掻いたことでした。
〈2576〉
 人目のない隙を窺って、葦垣越しにあの子を見ただけなのに、世間の噂がやたらとうるさい。
〈2577〉
 せめて今だけでも、存分にお顔を見せてください。お逢いできずに恋い焦がれる年月が、これから久しく続くでしょうから。
〈2578〉
 朝の寝乱れた髪を梳るまい、愛しいあなたの手枕が触れた髪だから。
〈2579〉
 急いで行って、一時も早くお前に逢いたいと思っていたけど、こうしてお前を見ると、やっと心が落ち着いたよ。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2575の「めづらしき」は「希将見」の義訓で、めったにない、貴重な。ここでは久しぶりにお逢いする、なかなか逢えない大切な人を指します。「君を見むとぞ」の原文「君乎見常衣」で、キミヲミムトコソと訓むものもあります。「左手の 弓取る方の」は、弓は左手で持つため、これは「左側の」ということを具体的に、かつ少し力強く表現しています。「眉根」は、眉。眉がかゆくなるのは恋人に逢える前兆とされた俗信を踏まえています。また、左のほうの眉だけかゆいのは、珍しい人に逢う前兆だともされていたようです。この歌は、珍しく来訪した夫を迎えての妻の喜びの歌と見えます。

 
2576の「人間」は、人のいない時。「守る」は、窺う。「葦垣越しに」は、外から葦垣越しに邸内を見る意。当時の「忍ぶ恋」の典型的なシチュエーションです。「相見しからに」は、(ほんのちょっと)対面した、それだけのために。「言」は、噂話。「さだ」は、甚だ。あるいは、実に、確かに。「多き」は「ぞ」の係り結びで連体形。「人間守り」という表現に、当時の恋愛の難しさが凝縮されています。誰にも見られてはいけないという強い緊張感の中、ようやく手に入れた「葦垣越し」という不自由な形での対面。それは決して派手な逢瀬ではなく、慎ましく、刹那的なものでした。

 
2577の「今だにも」は、せめて今だけでも。「目な乏しめそ」の「な~そ」は禁止で、「乏しむ」は、物足りなく思わせる。せめて今だけでも十分に顔を見せてほしいとの気持を言ったもの。「相見ずて」は、逢わないままで。「久しけ」は、形容詞の未然形で、それに推量の「む」と「く」が添って名詞形となったもの。男の旅立ち前夜に女の詠んだ歌と見え、「目な乏しめそ」という表現には、相手を瞳の奥に焼き付けておきたい、飢えたような渇望感が込められています。

 
2578は、夫が去って行った朝の歌。「朝寝髪」は、朝起きた時の寝乱れ髪。「愛しき」の原文「愛」で、ウツクシキと訓むものもあります。「君が手枕触れ」は、夫の腕を枕にして寝る意。愛しい夫が愛撫してくれたと思うと、自分の体のそれぞれの部分がいとおしく思える女心・・・。『万葉集』ではめずらしく直接的な性愛表現の歌であり、『万葉集』の中で、セクシーで美しい歌の筆頭にあげられるかもしれません。当時の女性は一般的に髪を長く伸ばしており、夜寝る時は髪を解き、昼間は結い上げたようです。結い上げる前に、朝、寝乱れた髪を櫛梳るのです。「触れてし」の「てし」は、過去完了の助動詞。原文「義之」は戯書となっており、王義之が書家(手師)であることからテシに宛てているものです。

 
窪田空穂はこの歌を、「夫の名残りを惜しむ心を、朝々の習いとしている朝寝髪を梳ることに集中させているもので、美しい歌である」と評し、作家の田辺聖子は、「『朝寝髪』という言葉、男性は知らず、女性がよむと、毒気に中(あ)てられたように、その言葉だけでまず、もうたくさん、あとは読みたくない・・・と拒否したいところであるのに、終わりまで続けると、その毒がかえって何とも、『いとおしい』色気に転じている。男と女は古代から千何百年、こうして愛し合ってきたんだなあ、と思われる。愛は続いたけれど、しかし、それを声高く歌えたのは『万葉集』が最初で最後だったのではないか」と述べています。

 
2579の「早行きて」は、早く行って。居ても立ってもいられず、急いで相手のもとへ向かう様子。「何時しか」は、いつになったら、早く。「念ひし情」は、(これまでの間)ずっと思っていた心」。過去から現在に至るまでの積もった思いを指します。「和ぐ」は、心が穏やかになる、鎮まる。「今ぞ和ぎぬる」は、ゾ+連体形の係り結び。久しく妻に逢えなかった男の、逢えた喜びと安堵の歌です。
 


めづらし

 見ることが稀であるゆえ、新鮮な思いがして、すばらさしさに強く心惹かれる、いつまでも見ていたいという気持ちを表す。[岩波古語]は、メ(目)+ツラシ(連」の意で、見ることを連ねたいというのが原義と説明する。ただし、賞美する意の動詞「愛(め)づ」から派生した語とする説もある。

 「神功紀」や『日本霊異記』などに記述から、メヅラシには、霊妙な対象を見たことへの感動と強い讃美が込められることが分かる。そのような意味は『万葉集』では讃歌に典型的に表れる。その特性は来臨する神を賛美することに由来するらしい。また、メヅラシは、季節ごとに訪れる花や鳥などの景物に対しても用いられた。それは、巡り来る季節や、季節の到来を知らせる景物が神の来臨と重ね合わせて捉えられたためである。

~『万葉語誌』から抜粋引用、一部改変

【PR】

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。