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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2605~2609

訓読

2605
玉桙(たまほこ)の道行きぶりに思はぬに妹(いも)を相(あひ)見て恋ふるころかも
2606
人目(ひとめ)多み常(つね)かくのみし候(さも)らはばいづれの時か吾(あ)が恋ひずあらむ
2607
しきたへの衣手(ころもで)離(か)れて吾(あ)を待つとあるらむ児らは面影(おもかげ)に見ゆ
2608
妹(いも)が袖(そで)別れし日より白たへの衣(ころも)片敷(かたし)き恋ひつつぞ寝(ぬ)る
2609
白栲(しろたへ)の袖(そで)はまゆひぬ我妹子(わぎもこ)が家のあたりをやまず振りしに

意味

〈2605〉
 通りすがりに偶然にあの子に逢っただけで、恋しくてならないこのごろだ。
〈2606〉
 人目が多いのでいつもこんなふうに機会を窺ってばかりいたら、いつどんな時に、私は恋い焦がれないでいられるようになるのか。
〈2607〉
 ほかの誰とも添い寝せず私を待ってくれているあの子。その幻影が目先にちらついて仕方がない。
〈2608〉
 この袖と交わしたあの子の袖、別れたその日から、ずっと自分の衣だけを敷いて、恋しく思いながら一人寂しく寝ている。
〈2609〉
 わが袖はすっかりほつれてしまった。彼女の家のあたりに向かっては、止むことなく振り続けてきたので。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2605の「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「道行きぶりに」は、行きずりに、通りすがりに。「思はぬに」は、予想もしていなかったのに、意外にも。「相見て」は、互いに視線を交わす、「恋ふるころかも」は、恋い焦がれている、今日この頃であることよ。あるいは顔を合わせるニュアンス。このようにして逢った女性に片思いをする類想の歌は多くあり、実際によくあったことのようです。ただこの歌の場合、初めて見た女ではない感じがするとの見方があります。

 
2606の「人目多み」の「多み」は「多し」のミ語法で、人目が多いので。「常かくのみし」の「し」は、強意の副助詞。いつもこのようにばかり。自由に逢ったり話したりできない現状を指します。「候らはば」は、様子を窺っていたならば、よい機会を窺っていたら。「いづれの時か」は、いったい何時になったら。「恋ひずあらむ」は、恋い焦がれずにいられるのか。秘密の関係であるがゆえの嘆きの男の歌とされ、出口の見えない苦悶が、「いづれの時か 吾が恋ひずあらむ」という反語の形をとることで強調されています。

 
2607の「しきたへの」は「衣」の枕詞。「衣手離れて」は、共寝の床を離れて。共寝をしていた二人が離れ離れになること。「あるらむ」は、今ごろ〜しているだろう、という現在推量。「児ら」の「ら」は接尾語で、妻の愛称。「面影に見ゆ」は、幻として見える、まぶたに浮かぶ。実際にそこにいないはずの人が、まるで見えるかのように感じられる状態。旅先にあって逢えない妻を思う男の歌とされます。

 
2608の「妹が袖別れし」は、愛する女性の袖と離れること。共寝の解消、あるいは別離を意味します。「衣片敷き」は、独り寝をいう慣用句で、 本来は二人で互いのものを重ねて共寝する衣を、自分の衣だけ敷いて寝ること。「恋ひつつぞ寝る」は、恋い慕いながら寝ていることよ。「ぞ〜ぬる」の連体形結びにより、その状態がずっと続いているという強調と余韻を残します。旅の途中の男が、女に贈った歌のようです。

 
2609の「白栲の」は「袖」の枕詞。「まゆひぬ」は、ほつれる、織り糸が片寄る。「家のあたりを」は、家のあたりに向って。「やまず振りしに」は、休むことなく(袖を)振っていたので。「に」は、理由や確定条件を表します。旅先にある男の歌でしょうか、わざとらしさが目立ち過ぎるとの評もありますが、妹との名残を甚だしく惜しんだ心を伝えています。「白栲の袖」を、我妹子の手作りとする説もあります。
 


古典文学を学ぶ意義

 まず第一に、数多くある古典文学作品は日本文化や歴史の貴重な証拠です。 源氏物語や古今和歌集などは、平安時代の風俗や人々の生活を詳細に描いており、当時の社会や人間関係についての洞察を窺うことができます。更に、更級日記などの日記や徒然草などの随筆は、中世の庶民の日常生活や心情を伝えています。

 第二に、古典文学は日本語の美しさと独自性を体現しています。古代の歌や物語は、音韻やリズムにこだわり、豊かなイメージや比喩を用いて表現されています。また、古い時代の文学作品は、日本独自の美意識や価値観を反映しており、それらを理解していることで日本文化の一端を垣間見ることができます。

 第三に、古典文学は現代の文学や芸術にも大きな影響を与えています。多くの作家や詩人が、古典文学のテーマや形式を借りて新たな創作を展望しています。それにより、現代の文学作品をより深く味わう力を培うことができます。

 総じて言えば、古い日本文学を学ぶことは、日本文化や歴史時代を俯瞰し、日本語の美しさや独自性を体感する機会を提供してくれますし、それらのつながりを確認することもできます。古典文学は、私たちの文化的な認識を形成するための重要な要素であり、その価値は今後も間違いなく継続していくでしょう。

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