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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2610~2614

訓読

2610
ぬばたまの吾(わ)が黒髪(くろかみ)を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも
2611
今さらに君が手枕(たまくら)まき寝(ね)めや吾(わ)が紐(ひも)の緒(を)の解けつつもとな
2612
白栲(しろたへ)の袖(そで)触れにしよ吾(わ)が背子(せこ)に吾(あ)が恋ふらくは止む時もなし
2613
夕占(ゆふけ)にも占(うら)にも告(の)れる今夜(こよひ)だに来まさぬ君を何時(いつ)とか待たむ
2614
眉根(まよね)掻(か)き下(した)いふかしみ思へるにいにしへ人を相(あひ)見つるかも
[或る本の歌に曰く 眉根掻き誰をか見むと思ひつつけ長く恋ひし妹に逢へるかも]

意味

〈2610〉
 黒髪を引きほどいて、身も心も取り乱し、さらにいっそうあなたを恋い焦がれてやまない私です。
〈2611〉
 今さらあなたの手枕で寝ることがありましょうか。それなのに私の着物の紐はわけもなくほどけてしまいます。
〈2612〉
 お互いに袖を交わして以来、あなたが恋しくて止むときがありません。
〈2613〉
 夕占いにも他の占いにもいらっしゃるとお告げがあった今夜、こんな今夜さえおいでにならないあなたを、いったいいつと思ってお待ちすればよいのでしょう。
〈2614〉
 (眉が痒いので)眉のあたりを掻き、内心訝しく思っていたところ、昔馴染みのあの人に逢ったことです。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2610は、女の歌。「ぬばたまの」は「黒髪」の枕詞。「引きぬらし」の「引き」は接頭語、「ぬらし」は、ほどいて。この時代、相手が思えば自分の髪が自然に解けるという俗信がありました。そこで、それを逆手にとり、自分で髪をほどくことによって相手の思いを呼ぼうとしています。上3句を「乱れて」を導く譬喩式序詞とする見方もあります。「乱れて」は、髪が乱れることと、心が乱れることの掛詞的な表現。「乱れてさらに」の原文「乱而反」で、ミダレテナホモと訓むものもあります。

 
2611の「寝めや」の「や」は、反語。寝られるだろうか、いや寝られない。「紐の緒」は、紐を強めて言った畳語で、下紐のこと。「解けつつ」の「つつ」は、継続。「もとな」は、わけもなく。固い決心をもって夫と絶縁しながらも、紐の解ける状態に対して、昂奮を新たにしている女の歌です。古代において、下着の紐がひとりでに解けるのは、愛する人が自分を思っている、あるいは近いうちに逢えるという吉兆(予兆)であると信じられていました。 作者は、公の立場や今の状況を考えて、「今さらあの人と共寝なんて無理だ」と打ち消そうとしています。しかし、自分の意思に反して紐が何度も解けてしまう。「もとな(わけもなく)」という言葉には、自分でもどうしようもない不可解な運命への戸惑いと、隠しきれない期待が滲んでいます。

 
2612の「白栲の」は「袖」の枕詞。「触れにしよ」の「よ」は「ゆ」と同じく、動作の起点を表す語。原文「袖觸而夜」で、ソデヲフレテヨ、ソデニフレテヨなどと訓むものもあります。ヨに「夜」の字を用いているのは、袖を触れ合わせた夜から、の意を持たせているのではないかとする見方があります。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。夫婦関係を結んだばかりの若い女が、その夫に衷情を訴えたもので、窪田空穂は、「『しろたへの袖に触れてよ』という言い方は、心つつましい言い方であるが、おのずから新味をなしているもの」と述べています。

 
2613の「夕占」は、夕方にする辻占(つじうら)のことで、夕方道端に立って、一定の範囲の場所を定め、米をまいて呪文を唱えるなどして、その場所を通る通行人のことばを聞いて吉凶や禍福を占ったといいます。辻は、人だけでなく神も通る場所であると考えられ、偶然そこを通った人々の言葉を神の託宣と考えたようです。「占にも」とあるのは、亀卜(きぼく/亀の甲を焼く)などさまざまな占いのことで、女は、他の占いもやって確かめたようです。そうしたら、それも今夜訪れると出た。それなのに男はやって来ない。これではもう来ることを期待できない、と男を恨んでいます。

 なお、時代が下った江戸時代には「辻占売り」というものが現れて、吉凶の文句などを書いた紙片を、道行く人に呼びかけて売るようになったといいます。なお、「占」の語源は裏表(うらおもて)の「裏」で、裏に隠れている神意を表に現わすことを占(うら)と呼んだものです。また「告(の)る」の原意は、呪力ある言葉を発することであることから、占いの判断を「告る」と表現しています。

 
2614の「眉根掻き」は、眉毛のあたりを掻くこと。「下いふかしみ」の「下」は、心の中で、の意。「いふかしみ」は、形容詞「いふかし」の動詞になった語で、不思議に思っていると、の意。「思へるに」は、思っていたところに。眉がかゆくなると、思う人に逢えるとの古代の俗信を踏まえています。「いにしへ人」は、昔馴染みの人、昔の夫。「相見つるかも」は、逢ったことであるよ。なお、或る本の歌に曰くとある歌は、別伝扱いとなっていますが、男の歌であり、類歌というべきものです。
 


正述心緒

 『万葉集』の作歌方法に関する分類用語の一つとして、寄物陳思(きぶつちんし)と並び称せられるのが正述心緒(せいじゅつしんちょ)。「正(ただ)に心の緒(を)を述ぶ」というのであり、ほとんど心情を表す叙述だけで一首を構成する作歌方法のことである。

 夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば(大伴家持 4・741)

 この一首は、夢で逢うのはつらいもの、目覚めて手探りしても相手の手にも触れないのだから、の意。恋する者の、夢と現実の間にさまよう心が巧みに表現された歌である。中国小説『遊仙窟』の「少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘を見る。驚き覚めて之を攪(と)れば忽然にして手を空しくす」の文言に刺激されての作歌と指摘されているが、ここではそれが十分に消化されている。

 恋の心を、このように心情にかかわることばだけで言い表すというのは、とかくその叙述が平板になりがちである。叙述が詩としての起伏をもつためには、それなりの工夫が必要であろう。ここでは、「夢」→「おどろきて(目覚めて、の意)」と時が経過したところでの、「掻き探れども手にも触れねば」という感覚に、その巧みな工夫がみられよう。この「正述心緒」は、他方の「寄物陳思」にくらべて、より新しい作歌方法であった。後期万葉の、坂上郎女や大伴家持あたりのところで、とりわけ盛んになる。表現の平板さを克服するためであろう、たとえば「恋に死ぬ」「人言(噂)に自滅する」「せめて夢のなかでなりと逢う」などの大袈裟な誇張を伴う場合も多いが、しかしその観念的な表現のうちに、人間の普遍的な心のかたちをとらえている歌が少なくない。

~『万葉集ハンドブック』/三省堂から引用

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