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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2615~2618

訓読

2615
敷栲(しきたへ)の枕(まくら)を巻きて妹(いも)と吾(あれ)と寝(ぬ)る夜(よ)はなくて年ぞ経(へ)にける
2616
奥山の真木(まき)の板戸(いたど)を音(おと)速(はや)み妹があたりの霜の上(うへ)に宿(ね)ぬ
2617
あしひきの山桜戸(やまさくらと)を開け置きて吾(あ)が待つ君を誰(た)れか留(とど)むる
2618
月夜(つくよ)よみ妹(いも)に逢はむと直道(ただぢ)から吾(われ)は来(き)つれど夜ぞ更けにける

意味

〈2615〉
 手枕を交わしてあの子と寝る機会がちっともないまま、いたずらに年が経ってしまった。
〈2616〉
 真木の板戸の鳴る音が激しくて入れないので、彼女の家のそばの霜の上で寝てしまった。
〈2617〉
 山桜の戸を開けたままにしてあの方を待っているのに、なかなかやってこないのは、いったい誰が引き留めているのでしょう。 
〈2618〉
 美しい月夜なので、急いで彼女に逢おうと真っ直ぐの道をやってきたのだが、それでも夜が更けてしまった。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。2615の「敷栲の」は「枕」の枕詞。「枕を巻きて」は、枕を共にする、腕枕をするという意味。「妹と吾と」は、単独母音を含む許容される字余り句。イモトワレト、イモトワレと訓むものもあります。「年ぞ経にける」は、「ぞ〜ける」の係り結びにより、(驚きや嘆きを込めて)本当に年月が経ってしまったのだなあという強い詠嘆を表しています。「寝る夜はなくて」という表現から、二人は全く逢えていないわけではなく、逢えていても共寝が許されない状況、あるいは遠距離や障害によって物理的に夜を共にできない状況が推察されます。一晩一晩の孤独が積み重なった結果、気づけば「年」という単位で時間が過ぎていたという、呆然とした喪失感が描かれています。

 
2616の「奥山の」は「真木」の枕詞。「真木の板戸」は、檜などの良質の木材で作られた板戸。「音速み」は、音が激しいので。ここは解釈の分かれるところで、風の音が激しいので(戸を叩いても気づいてもらえない)とする説や、戸を開ける音が(静かな夜に)激しく響いて母などが目を覚ますのを恐れて、とする説などがあります。一方では、家に入れずに霜の上で共寝をしたと解するものもあります。家人に関係を秘密にしているのと、家が狭いのとで、戸外で、夫婦相逢うことは、特別のことではなかったといいます。

 
2617の「あしひきの」は「山」の枕詞。「山桜戸」は、山桜の板で作った戸。「開け置きて」は、戸を閉めずに開けておくこと。当時の防犯や寒さを考えれば、夜に戸を開けておくのは尋常ではなく、それほどまでに「今か今か」と待ちわびている熱烈な思いを表します。来ない男を遠まわしに恨んだ女の歌であり、来ない理由を、本人の意思ではなく、誰か(他の人)が留めているせいにしようとする心理には、相手を信じたい気持ちと、浮気を疑う嫉妬心が混ざり合っています。前歌では、男が板戸を開けて入れず、外の霜の上で寝たと嘆いていましたが、本歌では女が戸を開けて待っていると言っています。この配置の妙により、開いているのに行けない男と、開けているのに来ない男を待つ女、という、男女のすれ違いや、ままならない恋の状況がより立体的に浮かび上がります。

 
2618の「月夜よみ」は、月が好いので。「直道」は、道なき所も構わずまっすぐに来る道、山を越えるような近道。一刻も早く会いたいという、はやる気持ちがこの言葉に凝縮されています。「直道」の用例はこの1首のみですが、他に「直越え」という言い方があります(巻第12-3195)。「吾は来つれど」は、私は来たけれども。原文「吾者雖来」で、ワレハクレドモと訓むものもあります。「夜ぞ更けにける」は、係り結びによる強い詠嘆。夜が更けることは、当時の通い婚のルールでは、もう訪問しては失礼な時間(あるいは門が閉まってしまう時間)であることを意味します。愛する人の家の前まで来ながら、声をかけることもできずに立ち尽くす男の、情けなくも愛おしい姿が浮かび上がり、全力で努力したのに、報われないという、恋におけるタイミングの難しさが伝わります。
 


『万葉集』の時代背景

 『万葉集』の時代である上代の歴史は、一面では宮都の発展の歴史でもありました。大和盆地の東南の飛鳥(あすか)では、6世紀末から約100年間、歴代の皇居が営まれました。持統天皇の時に北上して藤原京が営まれ、元明天皇の時に平城京に遷ります。宮都の規模は拡大され、「百官の府」となり、多くの人々が集まり住む都市となりました。

 一方、地方政治の拠点としての国府の整備も行われ、藤原京や平城京から出土した木簡からは、地方に課された租税の内容が知られます。また、「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた大宰府は、北の多賀城とともに辺境の固めとなりましたが、大陸文化の門戸ともなりました。

 この時期は積極的に大陸文化が吸収され、とくに仏教の伝来は政治的な変動を引き起こしつつも受容され、天平の東大寺・国分寺の造営に至ります。その間、多大の危険を冒して渡航した遣隋使・遣唐使たちは、はるか西域の文化を日本にもたらしました。

 ただし、『万葉集』と仏教との関係では、集中に仏教思想に由来する無常観や経典から学んだ語彙が散見されるものの、仏教そのものを直接的に詠んだ歌は少なく、仏教の影響はむしろ歌の根底に広く浸透していると推測されます。特に奈良時代には仏教文化圏と皇子・皇女文化圏(たとえば、天智天皇の皇女であり仏教経典を多く所蔵していた水主内親王の存在など)が共存しており、『万葉集』の成立にも皇女文化圏の影響や、唐の仏教文化からの知的体系の継承が関連していたと考えられています。ただし、当時の人たちの精神生活の支柱にあったのは、あくまで古神道的な信仰、すなわち森羅万象に存する八百万の神々であったことでしょう。

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