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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2619~2623

訓読

2619
朝影(あさかげ)に吾が身はなりぬ韓衣(からころも)裾(すそ)のあはずて久しくなれば
2620
解(と)き衣(きぬ)の思ひ乱れて恋ふれどもなぞ汝(な)がゆゑと問ふ人も無き
2621
摺(す)り衣(ころも)着(け)りと夢(いめ)に見つうつつにはいづれの人の言(こと)か繁けむ
2622
志賀(しか)の海人(あま)の塩焼き衣(ころも)穢(な)れぬれど恋といふものは忘れかねつも
2623
紅(くれなゐ)の八(や)しほの衣(ころも)朝(あさ)な朝(さ)な馴(な)れはすれどもいやめづらしも

意味

〈2619〉
 朝影のように私はやせ細ってしまった。なかなか裾の合わない韓衣のように、あなたに逢わない日々が続いているので。
〈2620〉
 ほどいた着物の乱れのように、思い乱れて恋い焦がれているのに、なぜお前のせいで苦しんでいるのだと訊いてくれる人もいないのか。
〈2621〉
 色とりどりの摺り染めの着物を着ている夢を見た。実際にはどこのどなたとの噂が立つというのか。
〈2622〉
 志賀の海人の塩焼きの作業衣が汚れているように、慣れ親しんだ仲になっても、恋の苦しみからはいつまで経っても逃れられない。
〈2623〉
 幾度も染めた紅の衣が、朝ごとに汚れてよれよれになるように慣れ親しんでいるけれど、それでもあなたはますます可愛いことだ。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「衣」に寄せた歌。2619は、恋やつれをした人で、男の歌と見られます。「朝影に吾が身はなりぬ」というのは、朝の影に映る自分のように細く、長く、つまりそのくらい痩せてしまったということ。「韓衣」は、中国風の衣服。大和風の衣服のようには前あわせの部分が重ならないため、裾の左右を合わせず、そのように逢わない日が久しく続いたとして、「あはず」を引き出す序詞となっています。「あはずて」は、女と逢わずして。恋の苦しみを抽象的な「悲しみ」としてだけでなく、「影のように薄くなった自分の体」という物理的なイメージで提示した、非常にインパクトの強い一首ですが、詩人の大岡信は、「歌そのものの感じはむしろ軽快。それも『物に寄せて』という形式が生む一つの効果だろう。直接の恋心の訴えという要素よりは、他の物が介在する分だけ、いわば美的要素がまさるから」と言っています。

 
2620の「解き衣の」は、縫い目を解いた着物の糸や布がバラバラに乱れる様子から「思ひ乱れて」にかかる枕詞。「汝」は、相手の男性。「なぞ」は、どうしてか。「問ふ人も無き」は、心配して声をかけてくれる人がいない。ただし窪田空穂は、「女の歌で、男に恋の悩みを訴えたものである。君のためにこのように悩んでいるのであるが、君は、われゆえにする悩みかといって尋ねてもくれないと恨んでいるのである」と述べています。巻第12に「解衣の念ひ乱れて恋ふれども何の故ぞと問ふ人もなき」(2969)という類歌があります。

 
2621の「摺り衣」は、花や葉で摺染めにした着物。「摺り衣着り」は、さまざまな人との関係を暗示するもの。あるいは、摺衣を着るという夢は人に言い寄られる前兆だとする俗信があり、それを踏まえているとも言われます。「着り」は、「着あり」の転で、着ている。「うつつには」は、現実には。「いづれの人」とあるのは、どういう人から言い寄られるのかと気がかりなことを言っています。窪田空穂は、「若い、女の気分にふさわしく美しく安らかに詠まれている歌である」と述べています。

 
2622の「志賀」は、福岡市志賀町の志賀島。「海人」の原文「白水郎」は、中国の揚子江付近に住み漁撈を生業とした男子の称で、これをアマにあてたもの。「塩焼き衣」は、塩を焼く時の衣。その汚れやすいところから「穢れ」と続け、同音の「馴れ」に転じたもので、上2句が序詞。「なれぬれど」は、馴れたけれどもで、夫婦関係の久しくなった意。「忘れかねつも」の「〜かねつ」は、〜することができない。忘れようとしても忘れられないという強い執着と、それに対する自分自身の呆れ、あるいは諦念を伴う詠嘆を表しています。長年連れ添った妻と離れている時の男の歌とされます。

 
2623の「紅」は、もとキク科の多年草の紅花で、その花を摘んで強い赤色の染料を製しました。「八しほの衣」は、その染料で何度も繰り返し染めた衣。上2句は「朝な朝な馴れ」を導く序詞。「朝な朝な」は、朝ごとに、毎朝。朝ごとに穢れてよれよれになる意と馴れ親しむ意とを掛けているとされますが、窪田空穂は不自然な続きであるとし、「妻の美しい譬喩とするときわめて適切なもので、それを主にしたものである」と述べ、譬喩を序詞の形にしたものと見ています。「いや」は、ますます。「めづらし」は、可愛い。通常、衣服は着れば着るほど古び、色褪せていくものです。しかし、この歌で詠まれているのは「八しほ(何度も染めた)の衣」です。何度も染め重ねた色は、深く、簡単には褪せません。 これを男女の関係に置き換えると、「長い時間をかけて情愛を深めてきた関係」を指します。そして、多くのものは見慣れるとつまらなくなるが、わが妻はその反対で、ますます新鮮で可愛いと作者は言っています。馴染むという安心感と、新鮮というときめきが矛盾せずに同居している点に、理想的なパートナーシップの姿が見て取れる歌です。
 


古代の人々の名前

 『古事記』の垂仁天皇の段に「凡(およ)そ子の名は、必ず母の名(なづ)くるに、・・・」と述べられているが、実際には誰が名付ける習慣であったのかはわからない。奈良時代の戸籍に見える名前を眺めていると、いろいろと興味深いことに気づく。

 たとえば、養老5年(721年)の下総国葛飾郡大島郷の戸籍には、与理売(よりめ)の次の子が古与理売(こよりめ)、その次の子が真与理売(まよりめ)、さらにその次の子が若与理売(わかよりめ)、といった名前が見える。二人目以降には「古」や「真」や「若」をつけただけというような兄弟は多い。それと、動物にちなむ名前が多いのも、この時代の特徴であろうか。戸籍や計帳の作成にあたって、実際には役人が戸ごとに調査してまわったと考えられるが、名前を書き上げていく際に、役人が便宜上、名前をつけてしまった可能性はある。動物にちなむ名前は、生まれた年の干支(えと)によってつけたとも考えられるが、必ずしも生まれた年の干支と一致しない例もある。あるいは、それぞれの動物のイメージを、その子の理想的な姿として名前に託したのであろうか。

 なかには、とんでもない名前をつけられてしまった者もいる。大宝2年(702年)の御野国味蜂間郡春部里の戸籍には、「阿弥多(あみだ)」と「无量寿(むりょうじゅ)」の兄弟が見える。親がよほど仏教に関心があるのか、それとも役人が戸籍に名前を記録する際にふざけたのであろうか。神護景雲2年(768年)には、政府が「仏菩薩」と「聖賢之号」を名前に用いてはならないという命令を出して、仏にかかわるような名前を禁止した。「阿弥多」や「无量寿」は、こうした名前の事例として変更させられただろう。

 当時は男性には「〇〇まろ」、女性には「〇〇め」という名前が多い。「まろ」は「麻呂」「万呂」「萬侶」などと書かれ、「め」も「売」「女」「咩」など、いく通りかの用字があるが、どれでも通用する。音が合っていればどんな漢字でもよく、読み方が定まっているだけで、表記は自由であった。

 「麻呂」は8世紀の前半までは、「麻呂」と2文字に分けて書いていたが、よく使われたために、8世紀末ごろには1文字で「麿」と書かれることが多くなる。また、平安時代になると「丸」と書かれることが多くなり、中世には男性名として「〇〇丸」という書き方のほうが定着する。「牛若丸」は、平安時代の終わりの人物であったからそういう名前なのであって、彼が奈良時代に生きていたとしたら、「牛若麻呂」であったかもしれない。

~『律令国家と万葉びと』から引用

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。