| 訓読 |
2667
真袖(まそで)持ち床(とこ)うち掃(はら)ひ君待つと居(を)りし間に月かたぶきぬ
2668
二上(ふたかみ)に隠らふ月の惜しけども妹(いも)が手本(たもと)を離(か)るるこのころ
2669
吾(わ)が背子(せこ)が振り放(さ)け見つつ嘆くらむ清き月夜(つくよ)に雲なたなびき
2670
まそ鏡(かがみ)清き月夜(つくよ)のゆつりなば思ひは止(や)まず恋こそまさめ
2671
今夜(こよひ)の有明月夜(ありあけつくよ)ありつつも君を置きては待つ人もなし
| 意味 |
〈2667〉
両の袖で床を払い、あなたを待っているうちに、月が西に傾いてしまいました。
〈2668〉
あの二上山に隠れていく月のように、名残惜しいけれども、評判のうるささに、いとしい彼女から離れ、手枕もしないこのごろよ。
〈2669〉
あの方が振り仰いで嘆いておいででしょう。この清らかな月夜に、雲よたなびかないでください。
〈2670〉
清らかな月夜が移っていってしまえば、あなたへの思いはやまず、いっそう恋しさがつのるでしょう。
〈2671〉
今夜の有明の月夜のように、あり続けて夜通し待つ人は、あなたをおいて他におりません。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「月」に寄せての歌。2667の「真袖」は、両方の袖。「床うち掃ひ」は、床の塵を払って。床を払うのは共寝の床をきれいにするためですが、男の訪れを待つ呪術的行為であったとも言われます。「君待つと居りし間に」の「居る」は、じっとその場に座って動かない様子を指します。「月かたぶきぬ」は、月が西の空へ傾いた。夜が更け、夜明けが近づいていることを示します。愛する人を迎えるための献身的な準備と、それが報われないまま空しく過ぎ去る時間。その対比が美しくも切なく表現されています。あるいは男が夜明け近くにやって来て、喜びと共に恨みを交えて言った歌とする見方もあります。
2668の「二上」は、大和(奈良県)と河内(大阪府)の境にある二上山のこと。二つの峰を持つ特徴的な姿で、『万葉集』では月や日が沈む象徴的な場所として頻繁に登場します。フタカミは元は二つの神の意で、「あめのふたかみ」と呼び、「天二上嶽」と書きます。古くから神の山としてあがめられていました。「隠らふ月の」は、隠れてゆく月のように。山に沈もうとする月への惜別を、愛する人との別れに重ねています。上2句は「惜しけ」を導く譬喩式序詞。「惜しけども」は、名残惜しいけれども。「手本」は腕で、手枕を言い換えたもの。「離るるこのころ」は、離れて過ごしているこの近頃。月光の中、一人いてつぶやかれたような歌です。
2669の「振り放け見つつ」は、振り返って遠く仰ぎ見る。「嘆くらむ」は、嘆いているだろう。「らむ」は、現在推量で、今この瞬間に相手がしているであろう動作を推測しています。「月夜」は、ここは月のこと。「雲なたなびき」の「な」は懇願的な禁止で、雲よ、どうかたなびいてくれるな。電話も手紙もままならない時代、離れた二人が同じ瞬間に同じものを見ることができる対象が「月」でした。「吾が背子が振り放け見つつ」という想像は、作者自身の視線の先に、相手の視線が重なっていることを確信している表現です。そして、「雲なたなびき」という言葉には、単なる風景描写を超えた切実さがあります。もし雲が月を隠してしまえば、二人の心を繋ぐ唯一の「窓」が閉ざされてしまう。月が隠れることは、二人の心の交流が遮断されることへの恐怖でもあるのです。なおこの歌は、人麻呂歌集の「遠妻の振仰け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき」(2460)を模し、女の作としたものとされます。
2670の「まそ鏡」は「清き」の枕詞。鏡を褒め称える言葉で、ここでは月の清冽な輝きを象徴しています。「ゆつりなば」は、移っていったならば。月が空を渡り西の山に沈むことを表しています。「恋こそまさめ」は、恋心はいっそう増していくに違いない。「こそ~め(已然形)」の係り結びで、強い確信と意志を表しています。窪田空穂は、「男が旅にあって、夜、清い月に対していると、妻を恋うる嘆きが慰められたにつけ、この月が沈んだならば、この心は失せて、恋の方が増さって来ようと思ったのである。月に慰められたのが重点で、慰められたがゆえにその失せた時が思いやられるという、心理の自然のある歌である。実感としてもった感そのものをあらわした歌である。個性的な作である」と述べています。
2671の「今夜の」の原文「今夜之」で、コノヨラノ、コヨヒノヤ、コノヨイノなどと訓むものもあります。2句目は、単独母音アを含む許容される字余り句。「有明月夜」は、月が空に残ったまま明ける夜。上2句は、同音で「ありつつも」を導く序詞で、実景でもあります。「ありつつも」は、このようにありながら。「君を置きては」は、君以外には。窪田空穂は、「女の、夜夫の通って来るのを待ちつづけ、ついに待ち得なかった時の心である。夫を怨めしく思ったが、思い返して、やはりこうしてあの公を待つよりほかはないと諦めを付けた心である。『今夜の在明月夜』は、その時期を待っていたことを暗示したもので、叙述とすべきものを序詞の形にして気分化したもので、上手な序詞である」と述べています。

『万葉集』クイズ
【解答】
1.山上憶良 2.鏡王女 3.秋 4.旋頭歌 5.柿本人麻呂 6.笠郎女 7.反歌 8.磐姫皇后 9.大伴旅人 10.大伴家持
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