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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2672~2676

訓読

2672
この山の嶺(みね)に近しと吾(わ)が見つる月の空なる恋もするかも
2673
ぬばたまの夜(よ)渡る月のゆつりなば更(さら)にや妹(いも)に吾(あ)が恋ひ居(を)らむ
2674
朽網山(くたみやま)夕(ゆふ)居(ゐ)る雲の薄(うす)れ行かば我(あ)れは恋ひむな君が目を欲(ほ)り
2675
君が着る御笠(みかさ)の山に居(ゐ)る雲の立てば継(つ)がるる恋もするかも
2676
ひさかたの天(あま)飛ぶ雲にありてしか君を相(あひ)見む落ちつる日なしに

意味

〈2672〉
 この山の嶺に近いと見ていた月が、いつのまにか遙か遠い空にかかっている。そんな、とらえどころのない恋をしているのだな。
〈2673〉
 夜空を渡っていく月が沈んでしまったら、さらにいっそう切ない思いで、私はあの子に恋い焦がれることだろうな。
〈2674〉
 朽網山に夕方かかっている雲が薄れてしまうと、私は恋しくなります。あなたにお逢いしたくて。
〈2675〉
 御笠の山にかかっている雲のように、次々に湧いては湧いては出てくる、そんな恋をしていることです。
〈2676〉
 あの空を飛ぶ雲でありたい。そうしたら、思うままにあの方とお逢いできる、毎日欠かさずに。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首。2672・2673は「月」に寄せての歌。2672の「この山の」は、眼前の山を指したもの。第4句の「月の」までが「空」を導く序詞であると共に叙事ともなっています。「月の空なる」は、月がいつの間にか遠い空にかかっている、そんな上の空の。月が空にある意と、心が空にある、不安で落ちつかない意の掛詞になっています。「恋もするかも」の「かも」は詠嘆で、恋をしていることだなあ。窪田空穂は、「片恋をしている男の、心が空になっている状態を意識して、深く嘆いた心である。・・・細かい心をもった序詞で、巧みだとすべきである」と述べています。

 
2673の「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夜渡る月」は、夜空をゆっくりと移動していく月。「ゆつりなば」は、月が西へ移動し、沈んでしまったならば。「更にや」の「や」は疑問の係助詞で、更に~だろうか。「吾が恋ひ居らむ」の「らむ」は、その結びで連体形。私は恋し続けているのだろうか。時間の経過(月の運行)によっても癒やされることのない、執拗なまでの恋情を描いており、2670と同趣の歌です。

 2674~2676は「雲」に寄せての歌。
2674の「朽網山」は、熊本県と大分県の境にある標高1788mの久住山。「夕居る雲」は、夕方に山に降りてきてかかっている雲。「薄れ行かば」は、次第に薄くなって消えてしまったならば。原文「薄徃者」で、ウスレイナバと訓むものもあります。「我れは恋ひむな」の「む」は推量、「な」は感動の助詞で、私は恋しく思うだろうな。なお、雲が薄れて夜になったらと解し、また上2句を譬喩式序詞とみて、「情が薄れたら」「姿が薄れ去ったら」と解する説もあります。「消えゆく風景」と「募る情念」の反比例を鮮やかに描き出している歌です。

 
2675の「君が着る」は、古くは笠をかぶることを着るといったことから、「御笠」にかかる枕詞。「御笠」は、貴人がかぶる笠。ここでは、地名の「御笠」を引き出すための言葉です。「御笠の山」は、奈良市東方、春日大社の背後の山。「立てば継がるる」は、雲が湧き上がると、それが次々に連なっていく様子。ここまでが、止む時もない恋心の比喩。「るる」は、自発。上3句を「立てば継がるる」を導く序詞と見る説もあります。「恋もするかも」の「かも」は詠嘆で、恋をしていることだなあ。

 
2676の「ひさかたの」は、悠久の天の彼方の意で「天」にかかる枕詞。「ありてしか」の「てしか」は願望の意で、あったらよい、~でありたいものだ。「落つる日なしに」は、欠ける日なしに。これまでの歌では、雲は「消えゆくもの(2674)」や「湧き継がれるもの(2675)」として、心のメタファーに使われていましたが、この歌では、作者は「雲そのものになりたい」と願っています。雲になれば、地上の障害や世間の目を飛び越えて、いつでもあなたの頭上にいられる・・・という、飛躍した空想が恋の激しさを物語っています。歌中に「君」とあるので女性の歌と見られますが、男の歌とするものもあります。
 


あめ・あま(天・雨・海人)

 アメには、「天」「雨」の字があてられる。両者は、母音交替形がアメとなることでも共通しており、語源を一つにする語であることが分かる。「天」は、神話的世界観において神々の住む天上世界をいうのが原義。後に、自然的存在としての天空をも意味するようになるが、その場合にも背後に天上世界の存在が意識されている。天空を意味する「天(あめ)」は、「地(つち:大地)」の対として「天地(あめつち)」の形で用いられることが多い。一方、神話的世界観においては、「天(あま)つ神(天上世界に属する神)」に対して、「国(くに)つ神(地上世界に属する神)」の呼称が見えており、「天」と「国」が対の関係に置かれている。

 「天(あめ)」は、「天(あま)」「天(あま)の」「天(あま)つ」「天(あめ)の」などの形で様々な語に冠し、神聖な天上界のものであることを表す複合語を作る。例えば、「天(あま)の原」は天空の広がりをいう語で、『万葉集』では多く「天の原振り放(さ)け見れば」と歌われる。「振り放け見る」は遠く振り仰いで見やる意で、本来、霊的な対象と交流し招迎するための呪術であった。よって、「天の原」の語にも、「高天原」の神聖さへの讃美の意識があることが分かる。

 また、「天(あめ)の下」は、都を中心として天皇が統治する秩序ある世界のことで、「天」の秩序を負い持って存在するものと考えられた。これに対して「天離(あまざか)る鄙(ひな)」という慣用的な言い回しがある。「鄙」は都を遠く離れた田舎をいう語であり、都を中心とする「天の下」に秩序を及ぼす「天(あめ)」が、「鄙」の地には存在し得ないものと考えられたために生まれた言い回しとされる。

 「天(あめ)」の強い呪力を宿して「天」から降るものが、「雨」である。「雨」に「天」の意識があることは、「ひさかたの天(あめ)の時雨(しぐれ)」(巻第1-82)という表現にも表れている。「雨」には「天」の強い呪力が宿るため、濡れることは禁忌とされた。よって、男女の恋愛生活において、「雨」の降る夜に男が女のもとを訪れることは基本的に避けられた。

 折口信夫によれば、古代日本において、「天」と「海」は同一視されていたという。漁撈民をいう「海人(あま)」や「海部(あまべ)」のアマと、「天」の母音交替形である「天(あま)」が同じアマの音を持つことが、その証左とされる。古代の神話的世界観では「天」と「海」が共に「国」の対とされることからも、「天」と「海」との共通性が見て取れる。古代の世界観の論理によると、「海」は遠い沖の果てで「天」の壁のそびえ立つ場所と接している。ここに、「天」と「海」とが同一視される理由があるらしい。 

~『万葉語誌』から抜粋引用

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