| 訓読 |
2682
韓衣(からころも)君にうち着せ見まく欲(ほ)り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を
2683
彼方(をちかた)の埴生(はにふ)の小屋(をや)に小雨降り床(とこ)さへ濡(ぬ)れぬ身に添へ我妹(わぎも)
2684
笠(かさ)無(な)みと人には言ひて雨(あま)障(つつ)み留(と)まりし君が姿し思ほゆ
2685
妹(いも)が門(かど)行き過ぎかねつ久方(ひさかた)の雨も降らぬかそを因(よし)にせむ
2686
夕占(ゆふけ)問ふ我(わ)が袖(そで)に置く白露(しらつゆ)を君に見せむと取れば消(け)につつ
| 意味 |
〈2682〉
韓衣をあの人に着せてみて、その姿を見たいと、恋い焦がれつつ過ごしました。雨の降るこの日を。
〈2683〉
人里離れたこの粗末な埴生の家に、小雨が降り床まで濡れてしまった。妻よ私に寄り添ってくれ。
〈2684〉
笠が無いのでと人には言って、雨宿りして泊まっていったあなたの姿が思い出されます。
〈2685〉
愛しいあの子の家の門を通りすぎかねている。いっそ雨でも降ってきてくれないだろうか、それを口実に立ち寄ることもできように。
〈2686〉
夕占をしていたら、私の袖に白露が降りてきた。それをあの方に見せようと、手に取れば後から後から消えていく。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首。2682~2685は「雨」に寄せての歌。2682は、妻が、自身で縫った韓衣を夫に着せてあげたいと、雨の日に訪れを待っている気持ちを詠んでいます。「韓衣」は唐風の衣服で、 袖が大きく丈が長くて、上前と下前を深く合わせて着るものでした。新風の衣服であり、貴族より始まって次第に庶民にまで及んだようです。「うち着せ」の「うち」は接頭語で、動作に勢いを添えたり、調子を整えたりします。自分の手で着せてあげたいという親密な動作。「見まく欲り」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。見たく思い。「恋ひぞ暮らしし」は、一日中恋い慕って過ごした。「ぞ」と「暮らしし(過去の助動詞「き」の連体形)」による係り結び。単に「逢いたい」と言うのではなく、「衣を着せたい」と詠む点に、深い愛着と献身が感じられます。この時代、夫の着物は妻が一切その手でまかなっていたのであり、晴着として出来上がった韓衣を夫に着せ、その姿を見たいというのは、妻としては特別な喜びで、夫としても嬉しいことであったでしょう。農耕で忙しい晴れの日は来れなくとも、雨の日は暇なので、夫はきっと来てくれるだろうと待ち焦がれていたとみえます。しかし、結局、男は来なかったようです。
2683の「彼方」は、遠方、向こうの。「埴生の小屋」は、土で塗った粗末な小屋。おそらくは耕作地などに建てられた物置き場のような小屋だと考えられます。この時代の男女は、人目につかなければどんな所でも密会の場所となっていたのです。身分のある人とて例外ではなく、庶民ならごくふつうのことだったようです。この歌は、その密会の最中に雨が降り出し、床まで濡れてきたというので、男が女をいたわっている歌です。「小雨」の原文「(雨+泳)霂」で、ヒサメと訓むものもあります。ヒサメは大雨で、こちらの方が歌意に合うようです。「身に添へ」は、体を寄せなさい、ぴったり寄り添え。この歌の魅力は、劣悪な環境を二人が密着する理由(口実)へと転換する、たくましくも色っぽい機智にあります。雨漏りがして寝床まで濡れるというのは、本来なら不快で不運な状況です。しかし、作者はそれを「だからこそ、寒くないように(あるいは濡れないように)お互いの体を密着させよう」という、愛の誘い文句に変えています。このポジティブで力強い情熱が、万葉人らしい真っ直ぐさを感じさせます。窪田空穂は、「健康な、明るい庶民を思わせる、厭味のない歌である」と評しています。
2684の「笠無みと」は、笠が無いのでと。「人には言ひて」の「人」は、家人。「雨障み」は、雨を憚って家に籠っている意の名詞。「留りし君」は、わが家にとどまっていた君。「君が姿し思ほゆ」は、あなたのお姿が(自然と)思い出される。「し」は、強意の副助詞。「思ほゆ」は自発の動詞で、断ち切れない愛着を表します。相手は本当に笠がなくて困っていたわけではなく、一緒にいたいがために「笠がないから帰れない」と、もっともらしい口実を作ったのです。作者は、その嘘を見抜きつつも、自分と一緒にいたいがために不器用な言い訳をした「君」の姿を、「なんて愛おしい人だろう」と思い返しています。当時の恋愛、特に通い婚の形態では、周囲の目を気にする必要がありました。堂々と「まだ一緒にいたいから帰らない」とは言えない状況で、「雨」と「笠の欠如」という理由を盾にした、「嘘(言い訳)」を共有する二人だけの親密さが鮮明に描かれています。
2685の「妹が門」は、愛しい彼女の家の門。「行き過ぎかねつ」は、通り過ぎることができない。「~かねつ」は、~するのが難しい、の意。「久方の」は、掛かり方未詳ながら「雨」の枕詞。「雨も降らぬか」の「も~ぬか」は、願望。「そを因にせむ」の「因」は、口実。それを口実にしよう。昼間に妻の家に立ち寄る口実となるよう、雨が降るのを願っている男の歌です。雨が降るから逢えないと嘆くのではなく、逢うために雨を味方につけようとする、非常にポジティブで能動的な姿勢が窺える一首です。門の前で空を見上げながら「雨よ降れ、降れ」と願っている作者の姿を想像すると、現代の私たちにもそのもどかしさが微笑ましく伝わってきます。前歌とは事情が前後しているような歌です。
2686は「露」に寄せての歌。「夕占」は、夕刻に往来に立って人の言葉を聞いて吉凶を占うこと。ここでは男が来るか来ないかを占っています。「吾が袖に置く白露を」は、露が袖に降りている様子。外でじっと待ち続けている時間の経過を暗示します。「白露」は、秋の夜に草木あるいは衣服に結ぶ露で、消えやすく、儚いものの象徴。原文「吾袖尓置白露乎」は「白」のない本もあり、ワガコロモデニオクツユヲと訓むものがありますが、国文学者の稲岡耕二は、「一首の内容から考えても露より『白露を君に見せむ』の方が、よりふさわしいだろう」と述べています。「取れば消につつ」は、手に取ると消えていってしまう。「つつ」は反復や動作の継続。何度も手に取ろうとしては消えてしまう、もどかしさと悲しさを表します。

「寄物陳思」
『万葉集』の作歌方法に関する分類用語の一つに、寄物陳思(きぶつちんし)がある。「物に寄せて思ひを陳(の)ぶ」という意であり、具体的には自然の物象に託して恋の心情を表現しようとする歌のことである。表現のしくみからいえば、物象を表すことばと心情を表すことばとを有機的に対応させながら一首を構成する方法である。物象を表す序詞を取り込んで、それを心情を表す本旨につないでいく作歌方法も、その一つの典型とみられる。
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ(坂上郎女 8・1500)
「姫百合の」までの序詞の物象が、「知らえぬ恋は」以下の心情を表す本旨部分と対応しあっている。むせかえるような夏草の繁みの中にこっそりと可憐な彩りをみせている姫百合が、そのまま秘めた恋に苦衷をかみしめる心のはなやぎにつらなっている。物と心が対等の位置を占めながら、鮮明な詩情をかもし出すことになる。
寄物陳思の方法は、ひとり序詞に限ったことではなく、物と心の対応する表現機構一般に広げて考えてよい。
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(額田王 4・488)
「君待つと我が恋ひ居れば」の心情のことばぐらいだけならば、ありきたりの言い方でしかない。しかし「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」という自然物象の風趣を取り込んでいるところに、歌の抒情性を純化させる個性的な斬新さがある。
このように物象を表すことばと心情を表すことばが互いに対応しあうように、一首を物と心で構成する方法が、『万葉集』の始まりから終わりまでを貫くもっとも伝統的な作歌方法であった。しかも、古く記紀歌謡の多くともつながっている。「寄物陳思」は、『万葉集』のもっとも伝統的で重要な作歌方法である。
~『万葉集ハンドブック』/三省堂から引用
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