| 訓読 |
2697
妹(いも)が名も吾(わ)が名も立たば惜(を)しみこそ富士の高嶺(たかね)の燃えつつ渡れ
2698
行きて見て来(く)れば恋しき朝香潟(あさかがた)山越しに置きて寐(い)ねかてぬかも
2699
安太人(あだひと)の梁(やな)打ち渡す瀬を速み心は思へど直(ただ)に逢はぬかも
2700
玉かぎる石垣淵(いはかきふち)の隠(こも)りには伏(ふ)して死ぬとも汝(な)が名は告(の)らじ
2701
明日香川(あすかがは)明日(あす)も渡らむ石橋(いははし)の遠き心は思ほえぬかも
| 意味 |
〈2697〉
彼女の名も私の名も噂に立っては悔しいからこそ、あの富士の高嶺のように、思いを燃やすばかりで過ごしている。
〈2698〉
行って見て、帰って来るとまたすぐ恋しくなる朝香潟。その朝香潟のように恋しく思うあの子を山の向こうに置いたままなので、夜も眠れないことだ。
〈2699〉
阿太人が掛け渡した梁のあたりは、瀬が速くて渡れない。そのようにあなたに直に逢うことができません。
〈2700〉
岩に囲まれた淵が人目に触れぬように、二人の関係を秘密にするためには、たとえうち伏して死んでしまおうとも、決してあなたの名は言いはしない。
〈2701〉
明日香川を、明日も渡って、あの人の所へ出かけよう。石橋の間が遠いように、間をあけて逢おうとは思ってもいません。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首。2697は「山」に寄せての歌。「立たば惜しみこそ」は、(噂として)立ったなら、それが口惜しいと思うからこそ。「富士の高嶺の」は「燃えつつ」を導く譬喩式序詞。「燃えつつ渡れ」の「渡れ」は、継続する、暮らす、過ごすの意。女に逢わずにいる男の、他意あってのことではないと、女に断わった歌とされます。噂になるのは困ると言いながら、その心は日本一の火山である富士山に例えられています。作者の抑制と情熱が限界までせめぎ合っている様子が伝わります。なお左注には、或る本の歌に曰くとして「君が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居れ」というとあります。
この歌は、前の2695の歌と同様、噴煙を上げていた富士山を背景に歌われています。富士山の噴火活動は、記録の上では天応元年(781年)が最初で、以後、延暦19~21年(800~802年)、天長3年(826年)、貞観6~7年(864~865年)に起こったとあり、9~10世紀のころは、ほぼ20~30年おきに噴火しています。これより前の万葉時代にも、ほぼ同じような状態だったと推測されています。日本でもっとも古い物語とされている『竹取物語』、かぐや姫が登場するこの物語にも、富士山のようすが書かれています。物語の最後のほう、かぐや姫が月に帰ってしまった後のこと、天皇がかぐや姫にもらった手紙と不死の薬を天にいちばん近い山の頂で火をつけて燃やすように命じ、そのためにその後ずっと煙が立ち上っているというのです。さらには、天皇の命令に従い多くの兵士が山に登ったことから、「富士の山(士に富む山)」と名づけられたとも。
2698は「潟」に寄せての歌。「行きて見て来れば恋しき」は、行って見て、帰って来ると恋しく思われる意で、女の許へ行って帰って来る朝の譬え。「朝香潟」は女の住地で、大阪府堺市東部の大和川の沿岸一帯。古くは海に面していました。この「朝」には妻問いをして帰って来る朝がイメージされているとも言われます。「山越しに置きて」は、男の住地が山を隔てた遠隔地であることを表したもの。「寐ねかてぬかも」は、夜も眠れないことだ。上の句の「行きて」「見て」「来れば」という畳みかけるような動作の連続は、心が千々に乱れている様子や、何度もそこへ足を運んでしまう執着心を表現しています。離れた瞬間にすぐ逢いたくなるという、恋の初期衝動のような瑞々しさがあります。そして、風景(朝香潟)をまるで恋人のように扱っているのが特徴的であり、当時の万葉人にとって、特定の土地を「恋しい」と詠むことは、そこに住む愛しい人への想いを仮託している場合が多々あります。
2699~2701は「水辺」に寄せての歌。2699の「安太人」は、奈良県五條市の吉野川右岸の地に住んでいた人々。「梁」は、杭を打ち水を堰き止め、一部分あけたところに簀を設置して魚を導く仕掛けのこと。川を横断するように設置されます。「瀬を速み」は、瀬が速いので。「~を~み」は「~なので」という原因・理由を表す語法(ミ語法)。ここまでの3句が、男女関係について監視や束縛が激しいことの譬喩になっています。吉野川の激しい流れの中に、じっと身を置いて待ち続けるような、あるいは流れに翻弄されるような、不安定で切ない心理状況が「梁」という言葉に凝縮されています。『万葉集』において吉野川周辺は、清らかな流れと聖なる場所として描かれます。特定の地名を出すことで、単なる抽象的な恋歌ではなく、その土地の湿り気や川の音を感じさせるようなリアリティを与えています。
2700の「玉かぎる」は、玉のほのかに輝く意で「石」にかかる枕詞。「石垣淵」は、山の中の切り立った岩に囲まれた深い淵。水が淀み、外からは底が見えない場所。上2句は、自分の深い心の内の比喩として「隠り」を導く序詞。「隠り」は、夫婦関係を秘密にする意。「伏して死ぬとも」は、病に倒れて、あるいは苦しみのあまり行き倒れて死んだとしても。原文「伏以死」で、フシイシナヌモと訓むものもあります。「汝が名は告らじ」は、あなたの名前は決して明かさない。「じ」は強い打消推量・意志の助動詞。男女いずれの歌とも取れ、相手に誓った歌です。
2701の「明日香川」は、明日香村の山中から北上し、大和川に合流する川。「明日香」という地名に「明日」を掛けています。「石橋」は、川の浅瀬に石を並べて橋にしたもので、「石橋の」は、その石と石の間が遠いところから「遠き」にかかる枕詞。「遠き心」は、間をあけて逢おうとする心、隔てた心。「思ほえぬかも」は、思われないことであるよ。明日香川を渡って女の許へ通う男の、心変わりせぬことを誓った歌です。「明日香川」という言葉から「明日(あす)」を引き出す手法は『万葉集』の常套手段ですが、ここでは単なる言葉遊びにとどまりません。「明日も渡ろう」という表現からは、「今日もあなたのもとに通い、明日もまた通う」という、恋に夢中な若々しいエネルギーが感じられます。

『万葉集』の解読作業
『万葉集』は周知のようにもとはすべて漢字で書かれていました。これを万葉仮名というのは、漢字を仮名文字のように扱っているからです。すなわちこれは、漢字本来の意味を生かして書くのではなく(例外は多少ありましたが)、主として字音を活用して古代の大和言葉を表記したものでした。後年も似たようなことがくり返されています。すなわち近代日本におけるローマ字というものがそれです。ローマ字の場合は、借用したアルファベットそのものが音標文字でしたからきわめて便利でしたが、漢字の方は違います。これは元来一字一字意味をもっている文字ですから、これを音標文字として利用するというのは、それ自体実に大胆かつ創意ある工夫だったと言えると同時に、ひどくややこしい問題を後世に残すことになったのも当然でした。
すなわち、『万葉集』が一応成立してから2世紀もすると、これをどう読めば五七五七七になるのかがすでに分からないという大問題が生じたのです。
紀貫之らによって勅撰和歌集の第一『古今和歌集』が撰進され、醍醐天皇の奏覧に供されたのは延喜年間、西暦でいえば10世紀の初頭でしたが、この時でもすでに、8世紀後半に成立した『万葉集』はきわめて難読の、しかし神聖きわまる和歌集となっていました。時代は漢文学全盛の時代です。多くの貴族がすでに漢文本来の書き方、読み方に通じていた上、片仮名や平仮名も漢字をもとにして開発されていましたから、漢字そのものを日本式のやり方でいわば恣意的にねじ曲げ、それを大和言葉の和歌を書くのに利用した過去の人々の窮余の一策は、たぶん恐ろしく奇妙なものに見えたはずです。
にもかかわらず、そこには古代天皇制の最も劇的な確立期の詩的証言である作品群が大量に含まれていました。天皇をはじめとする尊貴の人々の作が、柿本人麻呂や山部赤人の作とともにたくさん含まれています。当然解読されねばなりません。こうして『万葉集』解読の作業が、村上天皇の勅命によって正式に開始されたのです。第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の撰者5人(大中臣能宣伝・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城)が後宮の昭陽舎(通称梨壺)において、新しい勅撰和歌集を撰進することと同時に命じられ、作業を進めることになったのが、『万葉集』に訓点をほどこすという難事業でした。天歴5年、西暦951年のことです。
紀時文は巨匠貫之の息子、源順は当代きっての漢学者でもあった才能抜群の文人歌人、清原元輔も傑出した歌人で代々教養豊かな文人の家の出でした。元輔の娘が清少納言です。
梨壺の五人とよばれたこの人々が、毎日後宮の一室に通って仕事をしたのですが、おそらく『万葉集』解読は溜息つき通しの難事業だったろうと想像されます。今日にいたってもなお訓の定まらない歌がたくさんあるということからでも、それは分かります。
しかし、この事業がきっかけで、『万葉集』は古代の闇の中から徐々に後世の光の中へ蘇ったのです。それの先鞭をつけたのが村上天皇の勅命だったということは、朝廷というものの文化的意味について考える時、無視できないものでした。
~大岡信著『私の万葉集』から引用

(源順)
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