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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2717~2721

訓読

2717
朝東風(あさこち)に井堤(ゐで)越す波の外目(よそめ)にも逢はぬものゆゑ滝(たき)もとどろに
2718
高山(たかやま)の岩もと激(たぎ)ち行く水の音(おと)には立てじ恋ひて死ぬとも
2719
隠(こも)り沼(ぬ)の下(した)に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌(い)むべきものを
2720
水鳥の鴨(かも)の棲(す)む池の下樋(したび)無(な)みいぶせき君を今日(けふ)見つるかも
2721
玉藻(たまも)刈る井堤(ゐで)のしがらみ薄(うす)みかも恋の淀(よど)める吾(あ)が心かも

意味

〈2717〉
 朝の東風に吹かれ、堤を越えてよそに波があふれるように、よそ目にすら逢ったこともないのに、噂ばかりが滝もとどろくばかりにやかましい。
〈2718〉
 高山の岩の根元に激しく当たって行く水のような、高い噂を立てさせるようなまねはすまい。たとえ恋い焦がれて死のうとも。
〈2719〉
 隠れた沼のように、心密かに恋い焦がれているのでは飽きたらず、とうとう人に話してしまった、憚るべきなのに。
〈2720〉
 水鳥の鴨が棲む池に下樋が無くて水が滞っているように、心が晴れませんでしたが、あなたに今日やっとお逢いできました。
〈2721〉
 玉藻を刈る堤のしがらみが薄いように、恋のしがらみが少ないので二人の仲も滞りがちなのだろうか。それとも私の心が恋が薄いからだろうか。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「水辺」に寄せての歌。2717の「朝東風に」の「朝東風」は、朝に吹く東風で、強い風として言っています。「に」は、~によって。「井堤」は、川に設けられた堰(せき)や堤。上2句は「外目」を導く譬喩式序詞。「外目」は、遠くからそれとなく見ること。「滝もとどろに」は、噂の激しい譬え。一首全体が譬喩となっており、逢いもしない女性との噂を立てられた男の嘆きの歌と見られます。「朝東風」「井堤越す波」「滝もとどろに」といった言葉は、すべて非常に激しい動的なイメージを持っており、この激しさは、当事者たちの情熱ではなく、外部からの声(噂)に向けられています。

 
2718の「高山の岩もと」は、山中の岩礫・岩盤の根元あたり。「激つ」は、水が激しい勢いで流れる。上3句は、高い山の岩もとに激しく当たって行く水のようにの意で「音」を導く譬喩式序詞。「音には立てじ」は、世間の噂には立てまいで、口外しまいの意。「高山の岩もと」の語で静かな場を想定させ、その後に「たぎちゆく水の音」という動のイメージに転じます。この対比が効果的で、静かな岩の根元に激流の音という場の設定が、心の内の静けさと激しさを同時に描いています。男の歌。

 
2719の「隠り沼」は、水の出入りのない沼で、「隠り沼の」は「下」の枕詞。「下」は、心の中。男の歌。上代に用いられた「心」の類語に「うら」と「した」があり、『万葉集』では「うら」は26首、「した」は23首の用例が認められます。「うら」は、隠すつもりはなく自然に心の中にあり、表面には現れない気持ち、「した」は、敢えて隠そうとして堪えている気持ちを表わしています。「飽き足らず」は、満足できない、十分ではない。ここでは、自分一人で抱え込んでいるだけでは、思いが溢れてしまって苦しさに耐えられないというニュアンスです。「人に語りつ」は、(ついに)人に話してしまった」。「つ」は完了の助動詞で、「やってしまった」という後悔や、抑えられなかった勢いを含んでいます。「忌むべきものを」の「ものを」は、逆接や強い後悔を含んだ詠嘆の終助詞。

 
2720の「水鳥の」は「鴨」の枕詞。「下樋」は、池や堤防の底に通された、水を排出するための管(樋)。現代でいう排水口のようなものです。「無み」は、無いので。上3句は、水が停滞し汚れている意から「いぶせき」を導く序詞。「いぶせき」は、心が晴れない、うっとうしい。「今日見つるかも」は、今日、ついに逢えたなあ。長い間の鬱屈が、逢えた瞬間の喜びに一気に転換されています。女が久しぶりに男に逢った喜びの歌とされます。

 
2721の「玉藻刈る」は「井堤」の枕詞。「井堤のしがらみ」の「井堤」は、川を塞き止めて水を取り込むための設備。「しがらみ」は、川の中に木や竹などで柵を作り、水を塞き止めるもの。上3句は「薄み」を導く序詞。井堤もしがらみ水を塞き止める設備ですが、井堤が堅固であるのに対し、しがらみは脆弱なために「薄みかも」と言っています。「薄みかも」は、薄いからだろうか。「〜み」は原因・理由を表し、「かも」は疑問・詠嘆の助詞。「吾が心かも」は、私の心なのだなあ。男女どちらの歌とも取れ、「しがらみ」は恋の妨げの譬喩で、それが少ないために恋しさが募らないのかと言っています。非常に醒めた心境であり、相聞歌として珍しいとされます。
 


古典文学を学ぶ意義

 まず第一に、数多くある古典文学作品は日本文化や歴史の貴重な証拠です。 源氏物語や古今和歌集などは、平安時代の風俗や人々の生活を詳細に描いており、当時の社会や人間関係についての洞察を窺うことができます。更に、更級日記などの日記や徒然草などの随筆は、中世の庶民の日常生活や心情を伝えています。

 第二に、古典文学は日本語の美しさと独自性を体現しています。古代の歌や物語は、音韻やリズムにこだわり、豊かなイメージや比喩を用いて表現されています。また、古い時代の文学作品は、日本独自の美意識や価値観を反映しており、それらを理解していることで日本文化の一端を垣間見ることができます。

 第三に、古典文学は現代の文学や芸術にも大きな影響を与えています。多くの作家や詩人が、古典文学のテーマや形式を借りて新たな創作を展望しています。それにより、現代の文学作品をより深く味わう力を培うことができます。

 総じて言えば、古い日本文学を学ぶことは、日本文化や歴史時代を俯瞰し、日本語の美しさや独自性を体感する機会を提供してくれますし、それらのつながりを確認することもできます。古典文学は、私たちの文化的な認識を形成するための重要な要素であり、その価値は今後も間違いなく継続していくでしょう。
 

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