| 訓読 |
2745
港(みなと)入りの葦(あし)別(わ)け小舟(をぶね)障(さは)り多み吾(あ)が思ふ君に逢はぬころかも
2746
庭(には)清み沖(おき)へ漕ぎ出(づ)る海人舟(あまぶね)の楫(かぢ)取る間(ま)無き恋もするかも
2747
あぢかまの塩津(しほつ)をさして漕ぐ船の名は告(の)りてしを逢はざらめやも
2748
大船(おほぶね)に葦荷(あしに)刈り積みしみみにも妹(いも)は心に乗りにけるかも
2749
駅路(はゆまぢ)に引き舟渡し直(ただ)乗りに妹(いも)は心に乗りにけるかも
| 意味 |
〈2745〉
港に入る小舟が葦を押し分けて進むように邪魔が多いので、私の思うあの方になかなか逢えないこのごろだ。
〈2746〉
海が凪いで沖に漕ぎ出す漁船が休みなく楫を操るように、絶え間のない恋を私はしている。
〈2747〉
あじかまの塩津を目指して漕ぐ船が大声で名乗るように、はっきりと私の名を告げたのだから、逢ってくれないということはないはず。
〈2748〉
大船に刈り取った葦をどっさり積んだように、あなたは私の心にどっしりと乗りかかってしまったよ。
〈2749〉
宿駅の渡し場から舟を引いて一直線に向こう岸に渡るように、彼女はまっしぐらに私の心に乗りかかってしまった。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「船」に寄せての歌。2745の「港入り」は、舟が沖から港へ入ることで、名詞。「葦別け小舟」は、河口などに多く生えている葦を左右に押し分けて進む小舟。上2句は、そうした障害が多いことから「障り多み」を導く序詞。「多み」は「多し」のミ語法で、多いので。古代の港は現在の整えられた港湾とは違い、葦などの水草が密生する浅瀬が多くありました。そこを小舟で進むには、竿を刺し、草をかき分け、非常な労力を要します。この「さっぱりと進まない感覚」が、恋の成就を阻む家柄の違い、周囲の反対、あるいは噂話といった「世俗のしがらみ」のメタファーとなっています。女の嘆きの歌です。
2746の「庭」は、海上の仕事場の意。「清み」は、清いので、すがすがしいので。海が穏やかで、鏡のように清らかに凪いでいる様子を表します。「沖へ漕ぎ出る」は、凪いでいるからこそ、遠い沖まで舟を出すことができるという状況。上3句は、間断のない恋をしていることの譬喩。上3句または「楫取る」までを序詞と見る立場もあります。「楫取る間無き」は、舟を目的地へ進め、あるいは波を捉え続けるために、楫を片時も離さず動かし続けること。「間無し」は「絶え間がない」という意味。「恋もするかも」は、~という恋をしていることだよ、という詠嘆。
2747の「あぢかま」は、地名とする説や、アジカモという鳥の名にちなむ枕詞とする説があります。地名の場合、所在不明で、「塩津」も不明ですが、集中でほかに見えるのは、琵琶湖北岸の地。北陸と都を結ぶ交通の要所で、多くの船が集まる活気ある港です。上3句は、船には名のあることから「名は告りてし」を導く序詞。「名は告りてしを」は、女が名を告げたのを。つまり男の求婚に応じたことを意味します。「逢はざらめやも」は、逢わないことがあろうか、いや、そんなはずはない。反語の形をとった強い肯定・決意です。女性の歌とされますが、相手が名を明かしてくれたのだから、逢ってくれるはずだと女性に迫る男の歌と解するものもあります。
2748の「葦荷」は、刈り取った葦の荷。当時は家の屋根を葺いたり、敷物にしたりするために、大量の葦が船で運ばれていました。上2句は「しみみに」を導く譬喩式序詞。「しみみに」は、ぎっしりと、隙間なく、密集しているさま。「妹は心に乗りにけるかも」は、あの子が心に乗ってきた。船に荷を積むことと、心に愛する人の存在が満ちることを「乗る」という言葉で掛けています。「大船に葦荷を積む」という序詞は、単に「しみみに」という言葉を導いているだけではありません。船の甲板が見えなくなるほど高く、あるいは吃水線が下がるほど重く積まれた葦の山。その圧倒的な分量が、四六時中あの子のことで頭がいっぱいになっている作者の思考の密度を鮮やかに写し出しています。
2749の「駅路」は、律令制において、駅馬(はゆま)を走らせるための公的な幹線道路。ここでは水駅(すいえき)を指し、川や湖の渡し場などに水駅を設け、駅馬に代えて舟を配置していました。「引き舟渡し」とあるように、舟に綱をつけて、対岸から引き寄せました。上2句は、そのようにして舟に乗ることから、「直乗り」を導く序詞。「直乗りに」は、直ちに乗る、直接に乗る、何の迷いもなく乗る意。ここでは、舟に乗る動作の素早さと、恋心が芽生えた瞬間の衝撃を重ねています。「駅路」は情報を急いで伝えるための道であり、そこにある渡し舟も、ゆったりとした遊覧ではなく、目的地へ向かうための効率的な移動手段でした。この「速さ」のイメージが、恋に落ちる瞬間の、抗う間もないスピード感を象徴しています。2748も2749も同じ結句であり、相手のことが心に乗り移って離れない、心を占めることを「心に乗る」と表現しています。

直線道路の建設
7世紀の国家は、生活に必要なレベルを超えた道路をつくりだした。その道路は平野のなかをまっすぐに、ある箇所では丘を削ってまでも、できるだけまっすぐにつくられた。道幅は広いところで12~13m、現在の道路なら4車線分になる。自動車のない時代に、不似合いなほど幅の広い、人工的な道路である。
この直線道路は、駅馬の通る道である。約16kmごとに駅家(うまや)が置かれて、そこに優秀な馬が集められ用意された。都と大宰府を結ぶ山陽道には、駅家ごとに20頭の駅馬を置くように定められていた。もし、地方で反乱が起きたり、外国の軍隊が攻めてくるなどの緊急事態が発生したら、駅馬を使って急いで都に報告することになる。それぞれの駅家に選りすぐりの優秀な馬を置いておけば、駅家から駅家へ乗り継いでいき、当時の交通手段のなかではもっとも速く使者の往来ができる。1頭の馬で終点まで走り続けるよりも、リレー方式で馬を乗り継いだほうが、馬の疲労も少なくてすみ、目的地までかかる時間も少ないのである。古代の中国に設けられていた郵駅(ゆうえき)の制度を取り入れたものであり、交通というよりは、高速通信に重点が置かれた制度である。
直線であることは、最短距離を結ぶことが目的であったと考えられるが、12mという幅にはどのような役割があったのだろうか。ひとつには、非常事態が起こった場合に、それに対処する軍隊が移動する必要から、ということが想定できる。反乱の現場へ部隊を急行させるだけでなく、大規模な緊急事態には、援軍のために、別の方面から軍事動員をかけて部隊を移動させる必要も出てくる。最短距離を結ぶ12m幅の道路は、いざというときに軍隊が通る道でもある。
このような直線道路が人工的につくりだされたのは、7世紀後半であった。『日本書紀』では、天武天皇14年(685年)に全国支配のための七道制ができあがったことが知られるが、発掘調査の結果からは、それを若干さかのぼる時代に建設された可能性も考えられる。七道制が編成される前提として、各地を結ぶ幹線道路があったのかもしれない。天武天皇よりも前の天智天皇の時期に建設が始まったとすれば、その時代に直面していた問題と密接に関係するだろう。百済再興のために出した援軍が、663年に白村江で唐・新羅の連合軍に大敗を喫したことにより、7世紀後半には軍事制度の立て直しが喫緊の課題になっていた。軍事動員に便利な幅の広い直線道路は、国家の危機に対応するためという大義名分のもとに、多くの労働力を駆り出して建設されたのである。
~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用
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