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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2770~2774

訓読

2770
道の辺(へ)のいつ柴原(しばはら)の何時(いつ)も何時(いつ)も人の許さむ言(こと)をし待たむ
2771
吾妹子(わぎもこ)が袖(そで)を頼みて真野(まの)の浦の小菅(こすげ)の笠を着ずて来にけり
2772
真野(まの)の池の小菅(こすげ)を笠に縫(ぬ)はずして人の遠名(とほな)を立つべきものか
2773
さす竹の世隠(よごも)りてあれ吾(わ)が背子(せこ)が吾許(わがり)し来(こ)ずは吾(あれ)恋ひめやも
2774
神奈備(かむなび)の浅小竹原(あさしぬはら)のうるはしみ妾(あ)が思(も)ふ君が声の箸(しる)けく

意味

〈2770〉
 道のほとりのいつ柴原、その柴原ではないが、いつまでもあなたの許すと言ってくれる返事を待とう。
〈2771〉
 いとしいあなたの袖があるからと、真野の浦の小菅で編んだ笠をかぶらずにやって来てしまった。
〈2772〉
 真野の池の小菅でまだ笠を編み上げてもいないように、まだ関係ができてもいないのに、人の浮名を遠くまで広げるなんていうことがあってよいものだろうか。
〈2773〉
 (さす竹の節のように)世を忍んで閉じこもっていなさいな。もしあなたが私のところへ来てくれないのなら、私の方だって、あなたのことを恋しく思うものですか。
〈2774〉
 神が降臨するという丈の低い篠原を敬愛するように、私が敬愛するあの方の声がよくとおって聞こえる。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「草」に寄せての歌。2770の「いつ柴原」の「いつ」は、神聖な意や、勢い盛んな意を表す語で、ここは後者。「柴原」は、雑木林。上2句は「何時も何時も」を導く同音反復式序詞。「人の許さむ言を」の「人」は、相手の女。「許さむ言を」は、求婚を承諾するであろう言葉を。「言をし待たむ」の「し」は、強調の副助詞。躊躇してなかなか決心のつかない女に対し、物柔らかに訴えている男の歌です。窪田空穂は、「求婚時期の一つの相で、恋の機微に触れた歌といえよう。多少身分ある者同士である」と述べています。

 
2771の「我妹子が袖を頼みて」は、妹の袖を頼りにして。袖で温まったり共寝できることを意味しています。「真野の浦」は、現在の神戸市長田区東尻池町、西尻池町付近にあった入江。菅笠の産地だったとされます。「小菅の笠を着ずて」は、そこに生えていた菅で作った笠をかぶらずに。雨に降られ、相手の女性の袖を笠代わりにしようと思ったと言っているもので、浮気をせず一途に、という気持ちが込められています。窪田空穂は、「雨催いの日、笠も持たずに妻の許へ来た男が、明るく、戯れ半分に妻にいった歌」と言っています。

 
2772の「真野の池」は、神戸市長田区東尻池町、西尻池町付近にあったにあった池。「小菅を笠に縫はずして」は、笠を縫うという具体的な作業が完了していない状態を、女とまだ深い関係に至っていない状態の比喩として用いています。「人の」は、自身を客観的に言ったもの。「遠名」は、遠くまで聞こえる名前、つまり世間の評判・噂。ここでは特に男女の仲に関する浮名のことです。「立つべきものか」は、立ってよいはずがあろうか(いや、あってはならない)」という強い否定を含んでいます。女と関係を結びもしないうちに浮名のみ立ってしまったことに対する男の不満の歌です。

 
2773の「さす竹」は、伸び栄える竹。「さす竹の」は「世」の枕詞。「世」は「竹の節(よ)」と「世」を掛けています。「世隠りてあれ」の「あれ」は命令形で、人目につかない所(家)に籠っていよ、の意。「恋ひめやも」の「や」は強い否定を伴う反語で、恋いようか、恋いはしない。女の歌で、「噂になるのが怖いから」と尻込みして来ない男性に対し、「そんなに世間体が怖いなら、一生家に引きこもっていればいいわ!」と突き放しています。「恋しくなど思わない」と強く言い切るほど、実は相手が来てくれないことへの寂しさや、もどかしさが募っていることが伝わります。当時の女性の「待つ身」の辛さが、怒りに似た激しい口調となって表れています。

 
2774の「神奈備」は、天から神が降りる山や森を指す普通名詞。「浅小竹原」は、低い丈の篠原のこと。上2句は、その慕わしい意で「うるはしみ」を導く譬喩式序詞。「うるはし」は、現代の「美しい」よりも、もっと端正で、尊敬の念を含んだ「素晴らしい」というニュアンスの語。「著けく」は「著し」のク語法で、はっきりしている、際立っている。ひそかに恋している男性の声を、うっとりと聞く女性の歌とされ、斎藤茂吉は、この歌の「我が思ふ君が声の箸けく」の句に感心すると言っています。自分の恋しく思う男の声が人なかにあってもはっきり聞こえてなつかしいというので、何でもないようだが、短歌のような短い抒情詩の中に、こう自由に気持ちを詠み込むのは難しいことなのに、万葉では平然として成し遂げている、と。窪田空穂も、「詠み方の新しさとともに美しさをもった歌」と評しています。
 


うるはし

 ウルハシの原意は、細部まで完璧に整った理想の状態を讃めるところにある。基本的には神の属性であり、そこから光り輝くような美を意味した。それゆえ、神はしばしばウルハシと形容された。「神代紀下」で、アヂスキタカヒコネ神が、「光儀(よそほひ)華艶(うるは)しく、二丘二谷の間に映(てりかがや)く」と描かれていることが、その例証となる。「華艶」をウルハシと訓むのは、古訓による。

 『万葉集』のウルハシは、多くは人に対して用いられるが、その場合も整った理想の姿の形容であることが多い。互いの厚い交情を、ウルハシの動詞化であるウルハシミスを用いて表現した例もある。また、ウルハシは、土地への讃美に用いられることもある。

 ウルハシは、神の属性であり、いささかの欠点もなく完璧に整った状態を示すから、人間の行動に対して用いられた場合、その几帳面さを強調することにもなり、融通の利かない四角四面さをむしろ否定的に捉えるような例も、時代が下ると出てくる。『源氏物語』で、あまりにも古風な生活を墨守する末摘花(すえつむはな)が「かやうにうるはしくぞものしたまひける」(「蓬生」)と評されているのはその一例になる。 

~『万葉語誌』から抜粋引用

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