| 訓読 |
2785
咲く花は過ぐる時あれど我(あ)が恋ふる心の中(うち)は止む時もなし
2786
山吹(やまぶき)のにほへる妹(いも)がはねず色の赤裳(あかも)の姿(すがた)夢(いめ)に見えつつ
2787
天地(あめつち)の寄り合ひの極(きは)み玉の緒(を)の絶(た)えじと思ふ妹(いも)があたり見つ
2788
息(いき)の緒(を)に思へば苦し玉の緒(を)の絶えて乱れな知らば知るとも
2789
玉の緒(を)の絶えたる恋の乱れなば死なまくのみそまたも逢はずして
| 意味 |
〈2785〉
咲く花はいずれ散って消える時がくるけれど、私が恋い焦がれる心のうちはやむ時もありません。
〈2786〉
山吹の花のように美しく輝く顔色のあの子の、はねず色の赤裳を着けた姿が、夢に見えてきて。
〈2787〉
天と地が寄り合って一つになる果てまでも、玉を貫く緒の絶えることがないように、仲は絶えまいと思っている子の家のあたりを見た。
〈2788〉
命がけで思っていると苦しくてたまらない。いっそ玉の緒が切れて玉が散るように、悶え死ぬほどに思い乱れよう、人に知られようとも。
〈2789〉
玉の緒が切れるように絶えていた恋しさが、また乱れて抑えきれなくなったなら、死ぬよりほかに道はない。二度と逢うこともなく。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首。2785・2786は「花」に寄せての歌。2785の「花」はここでは特定の植物を指すというより、移ろいゆくものの象徴として置かれています。「過ぐる時」は、花の全盛期が過ぎ、散りゆく時期のこと。通常、和歌において花は美しさを讃える対象ですが、ここでは「いつか散るもの」「時とともに変わるもの」というネガティブな側面(無常観)を強調するために使われています。その対照として、自分の恋心を「不変・不動のもの」として提示しています。佐佐木信綱は、「類型の多い構想であるが、咲く花を用いたのが珍しい。平明な上に優美な歌である。その点では、平安時代的であるといえるであろう」と評しており、窪田空穂も「後世に好まれた歌風である」と述べています。男女どちらの歌とも取れます。
2786の「山吹の」は、山吹のように、で「にほふ」の比喩的枕詞。山吹は、バラ科の落葉低木で、4~5月に黄金色に近い黄色の花を咲かせます。「にほへる」は、美しく照り輝く。「はねず」は庭梅で、薄い紅色。「赤裳」は、女性が腰から下にまとった衣。赤は若さや高貴さの象徴です。「夢に見えつつ」の「つつ」は反復を表し、一度きりではなく、何度も繰り返し夢に出てくる様子。山吹の黄色とはねずの赤色を対比させた歌であり、窪田空穂は、「みずみずしい色彩を二つ配合して、平面的に叙したもので、一つの新傾向を見せている歌である」と述べています。
2787~2789は「玉の緒」に寄せての歌。2787の「天地の寄り合ひの極み」は、空間的に天と地が寄り合って一つになるその果てを表しますが、時間的に未来永劫の彼方までの意を表す場合もあり、ここは後者。「玉の緒の」は、玉を貫いている緒の意で「絶え」にかかる比喩的枕詞。「絶えじ」は、絶えないでほしい。
ここでは「あの人に会いたい、だから世界の果てまで私の命が続いてほしい」という、生の執着を表現しています。「妹があたり」は、妹の家のあたり。冒頭2句の表現がやや大げさなのは、それだけ「妹があたり見つ」の感動や妹への恋情が大きかったことを示しており、長旅から帰った男の歌だろうとされます。
2788の「息の緒に」は、命の続く限り、命を懸けて。「絶えて乱れな」の「な」は強い希望・意志、あるいは促しの助詞。「いっそ切れてしまえ」という自暴自棄に近い激しい感情です。バラバラに散らばる玉(魂)のイメージも重なります。「知らば知るとも」の主格は、世間の人々。他人に知られてしまうなら、それならそれでいいという開き直り。片恋の苦しさに堪えられなくなってきた男の歌で、極限状態の心理が剥き出しになっています。
2789の「玉の緒の」は「絶え」の枕詞。「玉の緒の絶えたる恋」は、ここでは比喩的に「すでに死んだも同然の苦しい恋」を指します。「絶えたる」という完了形が、もはや後戻りできない精神状態を示しています。「乱れなば」の「乱れる」は、バラバラに散らばった玉のように心が千々に乱れる様子のことで、もしこれ以上、この苦しみが続くなら、という仮定。「死なまくのみそ」の「死なまく」は「死なむ」ク語法で名詞形。「のみそ」は強い限定と強調を表します。関係の絶えてしまった相手に最後に贈った歌のようであり、男女どちらの歌とも取れます。

『万葉集』は誰が書いたのか
『万葉集』の歌は、漢字の音や訓を利用して日本語を書き表すために利用された万葉仮名で書かれています。そして、『万葉集』は本当に日本人が書いたものなのかという疑問が提起されています。現代の私たちが使用している平仮名は平安時代に成立した文字ですが、そのころの平仮名には、長らく濁音を表す文字がありませんでした。ところが『万葉集』には「泥(で)」というような濁音を専門に表す万葉仮名が使用されています。また、この時代の母音の一部には2種類の発音があり、単語ごとに明確に使い分けられていました。この2種類の発音それぞれに使用された万葉仮名の中国音の違いは非常に微妙なものであり、日本人が簡単に区別できるものではないといいます。つまり、万葉仮名の使用者たちは、とうてい日本人とは考えられない状況が確認できるというのです。
『万葉集』に収められているものの大半は和歌であり、もちろん日本語で作られています。しかし、その日本語を表記するのに用いられたのは漢字を基にした万葉仮名であり、国語学者たちの研究成果からすれば、万葉仮名を使用できるのは中国の漢字音を熟知した人物であった可能性が高いとされます。そうしたことから、編者のなかに、中国人とまでは言わなくとも、渡来系の人物や渡唐経験者がいたのであろうと考えられています。
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