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巻第11(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第11-2790~2794

訓読

2790
玉の緒(を)のくくり寄せつつ末(すゑ)つひに行きは別れず同じ緒(を)にあらむ
2791
片糸(かたいと)もち貫(ぬ)きたる玉の緒(を)を弱み乱れやしなむ人の知るべく
2792
玉の緒(を)の現(うつ)し心(ごころ)や年月(としつき)の行きかはるまで妹(いも)に逢はずあらむ
2793
玉の緒(を)の間(あひだ)も置かず見まく欲(ほ)り吾(あ)が思ふ妹(いも)は家遠くありて
2794
隠(こも)り津の沢たづみなる石根(いはね)ゆも通して思ふ君に逢はまくは

意味

〈2790〉
 玉の緒の両端を結び合わせるように、最後まで離れず、同じ一つの緒のような仲になっていましょう。
〈2791〉
 一本の糸で玉を貫いた緒が弱くて切れて乱れるように、私の思いの弱さで心が乱れてしまうのではなかろうか、人に知られるほどに。
〈2792〉
 命のある正気な心で、年月のあらたまるまでの間、彼女に逢わずにいられるだろうか、いられはしない。
〈2793〉
 連なる玉と玉の間に隙間がないように、間もなく絶えず逢っていたいあの子は、家が遠くにあって。
〈2794〉
 隠れた水、沢にこもり涌く水が石根を通し流れるように、ずっと思っています、あなたに逢うまでは。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首。2790~2793は「玉の緒」に寄せての歌。2790の「玉の緒の」は、玉の緒のように。「くくり寄せつつ」は、バラバラになりがちな玉や、離れようとする二人の縁を、力強く引き寄せて結び留める動作を指します。「末つひに」は、人生の最後まで、死ぬその時まで。「行きは別れず」は、道が二つに分かれるように、二人の仲が裂かれることはない、という決意の表明。「同じ緒にあらむ」は、同じ緒の玉となっていよう。全体が譬喩となっており、「玉」は男女、「玉の緒」は同棲生活を示しています。男女どちらの歌とも取れますが、装身具を弄びつつ詠んだ女性の姿がしのばれるとして、女性の作とする見方もあります。

 
2791の「片糸」は、縒り合せる前の細い一本の糸のこと。普通に使用する糸は、強度を高めるために、片糸の二筋を縒り合わせたのです。「玉の緒」は、翡翠や真珠などの玉を貫いている糸。転じて命や心のつながりを象徴することが多い語です。「緒を弱み」は、緒が弱いので。以上3句は「乱れ」を導く譬喩式序詞。「乱れやしなむ」は、乱れてしまうのだろうか、という推量。糸が切れて玉が散らばる様子と、心が乱れる様子を掛けています。「や」は、詠嘆的疑問。「人の知るべく」は、人が知るほどに。女の歌で、心の弱さの譬喩に片糸の玉の緒を用いたのが新しいとされます。

 
2792の「玉の緒の」は「現し心」の枕詞。普通は「絶ゆ・長く」等にかかりますが、玉の緒が魂の緒の意で「現世(うつし)」にかかるものとされます。「現し心」は、正気、平常心。「逢はずあらむ」は、逢わずにいられようか、いられない。窪田空穂は、「女と関係を結んでいる男が、何らかの事情で久しく女に逢えずにいる時の心である。そのことを嘆かずに憤りとしていっているところに特色がある。嘆くよりも深情である。調べが強くさわやかで、その気分にふさわしい」と述べています。

 
2793の「玉の緒の」は、玉と玉との間の意で「間」にかかる枕詞。「間も置かず」は、隙間もなく、絶え間なく、いつも、という意味で、数珠のように玉が連なっている状態から時間的・空間的な連続性を強調します。「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。「家遠くありて」は、物理的な距離だけでなく、容易に会うことができないもどかしさや、心理的な切なさを強調する結びです。「隙間のない理想」と「遠く離れた現実」を対比させており、遠い旅に出ている男の歌とされます。

 
2794は「岩」寄せての歌。「隠り津」は、人目につかない所にある水。「沢たづみ」は、沢に湧き出す水。「石根ゆも」の「石根」は岩の根元、あるいは岩そのもの。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「も」は詠嘆。「通して思ふ」は、岩に水が染み込んでいくように思う、あるいは岩の隙間を抜けていくように思う。原文「達而念」で、トホシテゾオモフ、トホリテオモフなどと訓むものもあります。「逢はまく」は「逢はむ」のク語法で名詞形。「隠り津」や「沢たづみ」は、一見すると動きがないものの、その水は長い時間をかけて硬い石根のわずかな隙間を見つけ出し、じわじわと裏側まで通り抜けていきます。これは、周囲には決して悟られないようにしながらも、心の底では深く、決して途切れることなく相手を思い続ける「忍ぶ恋」のエネルギーを象徴しています。
 


いも(妹)

 『万葉集』の歌においては、概ね男性から親愛の情をこめて女性を呼ぶ呼称として用いられる。セ(背・兄)と一対をなし、古代の兄妹の濃密な関係を、恋愛関係にある男女の関係に持ち込む呼称と見られている。

 『万葉集』には相聞歌を中心に約670例見られ、恋愛においては一般化している呼称に見えるが、次の歌を見ると、やはり男性が女性をイモと呼ぶことには、特別な意味合いが込められているようである。

 妹と言はばなめし恐ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも(巻第12-2915)

 イモなどと呼ぶと無礼で畏れ多いけれども、それでも相手の女性をイモと呼びたいという衝動が歌われており、女性をイモと呼ぶことが男女の特別な関係を前提とすることを示している。

 元来イモは、男性から女性の姉妹を指す親族名称であり、歌においてもイモの原義で用いられた用法も見られる。

 言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ(巻第6-1007)

 市原王の歌で、「物言わぬ木でさえ兄妹があるというのに、自分が独りっ子であることが苦しい」というほどの意味である。このイモは親族名称としてのイモの意で用いられている。

~『万葉語誌』から引用

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