| 訓読 |
2799
人言(ひとごと)を繁(しげ)みと君を鶉(うづら)鳴く人の古家(ふるへ)に語らひて遣(や)りつ
2800
暁(あかとき)と鶏(かけ)は鳴くなりよしゑやし独り寝(ぬ)る夜(よ)は明けば明けぬとも
2801
大海(おほうみ)の荒礒(ありそ)の洲鳥(すどり)朝(あさ)な朝(さ)な見まく欲(ほ)しきを見えぬ君かも
2802
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々(ながなが)し夜(よ)をひとりかも寝む
| 意味 |
〈2799〉
人の噂がうるさいので、鶉が鳴く古い空き家のようなところで語らい、お帰ししました。
〈2800〉
もう夜明けだと、鶏が鳴いて知らせる声がする。もうどうでもいい、どうせ独り寝の夜なのだから明けるなら明けたってかまわない。
〈2801〉
大海の荒磯に毎朝やってくる水鳥たちのように、毎朝毎朝お顔を見たいと思っているのに、一向にやって来ないのですね、あなたは。
〈2802〉
焦がれまい焦がれまいと思うのに、やっぱり恋しくてならない。あの山鳥の尾のように長い長い独り寝の夜は。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」4首で、いずれも「鳥」に寄せての歌。2799の「人言を繁みと」の「人言」は、人の噂。「繁み」は「繁し」のミ語法で、「〜を〜み(形容詞の語幹+み)」は「〜なので」という理由を表す万葉特有の語法です。人の噂がうるさいので。「鶉鳴く」は、鶉が荒れた所に棲む鳥だとして「古」にかかる枕詞。「人の古家」は、誰のものとも知れない空き家、あるいは古びた家。「語らひて遣りつ」の「語らふ」は単に会話をするだけでなく、男女が深い仲として語り合うことを含みます。「遣りつ」は、訪ねてきた相手を(名残惜しみながらも)帰した、という完了の表現。不本意な逢い方をしたことを嘆いている女の歌です。
2800の「暁」は、夜明け前のまだ暗い時間。現代の「暁」よりも少し早い時間を指します。「鶏」は、鶏(にわとり)のこと。『万葉集』では、恋人たちの時間を引き裂く無情な存在としてしばしば登場します。「鳴くなり」の「なり」は、聴覚にもとづく推定。「よしゑやし」は、ままよ、それでもよい。投げやりな、あるいは開き直った気持ちを表す感嘆詞です。「明けば明けぬとも」は、明けるなら明けてしまえという突き放した表現。本来、恋人が共にいる夜は明けないでほしいと願うものですが、独り身であれば、夜明けの風情も、時間の経過も、どうでもいいという自暴自棄な心情が表れています。
2801の「大海の荒礒」は、波の打ち寄せる激しい海岸のこと。「洲鳥」は、洲にいるカモメや千鳥などの総称。上2句は、洲に毎朝見る鳥のようにの意、あるいは野鳥の習性として早朝に求食することから「朝な朝な」を導く譬喩式序詞。「朝な朝な」は、「毎朝」を強調した表現で、毎朝毎朝、日々に。「見まく欲しきを」の「見まく」は「見る」のク語法で、見たいと思うのに。「見えぬ君かも」の「かも」は詠嘆で、(それなのに)姿を見せてくれないあなただなあ。男が通って来ないことに不満を述べた女の歌です。
2802の「あしひきの」は「山鳥」の枕詞。「しだり尾」は、長く垂れている尾の意で、山鳥(キジ科の鳥)のオスは、非常に長い尾羽を持っているのが特徴です。上3句は「長々し」を導く序詞。「「ひとりかも寝む」は、独りで寝るのだろうか。疑問・詠嘆の係助詞「かも」+推量の助動詞「む」の連体形による係り結び。当時、山鳥のオスとメスは、夜になると谷を隔てて別々に寝るという伝承がありました(実際にはそうではありませんが、文学的な約束事として定着していました)。 そのため、「山鳥」を出すだけで、単に尾が長いというだけでなく、愛し合う者が離ればなれで夜を過ごすという寂しい境遇を暗示させる効果があります。
なおこの歌は「思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を」の或る本の歌に曰くとある歌で、また『小倉百人一首』には柿本人麻呂作として載っています。なぜ人麻呂作にすり替わったのか、詳しいことは分かっていませんが、藤原公任が編纂に関わった『拾遺集』に人麻呂の歌として入集したのがきっかけのようです。「あしひきの・・・」の序詞で有名になった歌ですが、斎藤茂吉によれば、「この程度の序詞ならば万葉にかなり多い」ということです。

古典文学を学ぶ意義
まず第一に、数多くある古典文学作品は日本文化や歴史の貴重な証拠です。 源氏物語や古今和歌集などは、平安時代の風俗や人々の生活を詳細に描いており、当時の社会や人間関係についての洞察を窺うことができます。更に、更級日記などの日記や徒然草などの随筆は、中世の庶民の日常生活や心情を伝えています。
第二に、古典文学は日本語の美しさと独自性を体現しています。古代の歌や物語は、音韻やリズムにこだわり、豊かなイメージや比喩を用いて表現されています。また、古い時代の文学作品は、日本独自の美意識や価値観を反映しており、それらを理解していることで日本文化の一端を垣間見ることができます。
第三に、古典文学は現代の文学や芸術にも大きな影響を与えています。多くの作家や詩人が、古典文学のテーマや形式を借りて新たな創作を展望しています。それにより、現代の文学作品をより深く味わう力を培うことができます。
総じて言えば、古い日本文学を学ぶことは、日本文化や歴史時代を俯瞰し、日本語の美しさや独自性を体感する機会を提供してくれますし、それらのつながりを確認することもできます。古典文学は、私たちの文化的な認識を形成するための重要な要素であり、その価値は今後も間違いなく継続していくでしょう。

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