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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-2848~2850

訓読

2848
直(ただ)に逢はずあるは諾(うべ)なり夢(いめ)にだに何(なに)しか人の言(こと)の繁(しげ)けむ
[或本の歌に曰く  うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
2849
ぬばたまのその夢(いめ)にだに見え継(つ)ぐや袖(そで)干(ふ)る日なく我(あ)れは恋ふるを
2850
うつつには直(ただ)には逢はず夢(いめ)にだに逢ふと見えこそ我(あ)が恋ふらくに

意味

〈2848〉
 じかに逢えないのはやむを得ません。けれども、夢の中で逢うだけなのに、どうして世間の噂がうるさくつきまとうのでしょう。(なるほど現実には逢えません。それにしても夢にまでも)
〈2849〉
 夜のその夢の中に、私の姿が見え続けていますか。涙で濡れる袖が乾く日とてなく、私は恋い焦がれていますのに。
〈2850〉
 現実にはじかに逢うことができないでいますが、せめて夢の中では目の前にいるかのように姿を見せてください。こんなに恋い焦がれているのだから。

鑑賞

 『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2848の「直に逢はず」は、直接(現実で)逢わない。「諾なり」は、もっともだ。「夢にだに」は、夢に逢うだけでも。「何しか」は、どうしてか。「人の言の繁けむ」は、他人の噂の多いことであろうか。夢は他人に見られるものではないから、夢の中で人の噂が立つはずがない、それなのにどうしてという心です。当時の人々にとって、夢は自分の意識が見せる幻ではなく、魂が実際に行動している場所でした。夢の中で噂話が聞こえるということは、それほどまでに現実世界のプレッシャー(不倫であったり、身分違いであったり、周囲の反対であったり)が、魂を休まらないほど追い詰めていることを意味します。

 
2849の「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「その夢」は、相手の夢。「見え継ぐや」は、絶え間なく現れてくれるだろうか、見え続いただろうか、の意。万葉時代、夢は自分が見るものであると同時に、自分の魂が体から抜け出して、相手のところへ行くものでもありました。原文「見継哉」で訓が定まらず、ミツギテヤ、ミツギキヤなどと訓むものもあります。「袖干る日なく」は、涙で袖が濡れ、乾く暇がない。恋の苦しさを表す伝統的な比喩表現です。「我れは恋ふるを」の「を」は、〜のに、〜だからこそという、理由や逆接を含んだ強い詠嘆の助詞。原文「吾戀矣」で、ワガコフラクヲ、ワガコヒシサヲなどと訓むものもあります。前の歌ともども女の歌とされます。

 
2850の「うつつには」は、現実には。「直には逢はず」は、直接に逢わず。原文「直不相」で、タダニモアハズ、タダニアハナクなどと訓むものもあります。「夢にだに」は、せめて夢にだけでも。「見えこそ」の「こそ」は、強い願望の表現で、見せてほしい、現れてほしい。「我が恋ふらくに」の「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。これほど恋しているのだから、という強い理由を添える結びです。旅先にある夫に妻が恋情を訴えた歌との見方がありますが、男女どちらの歌とも取れます。
 


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『柿本人麻呂歌集』について

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。