| 訓読 |
2864
我(わ)が背子(せこ)を今か今かと待ち居(を)るに夜(よ)の更けゆけば嘆きつるかも
2865
玉釧(たまくしろ)まき寝(ぬ)る妹もあらばこそ夜(よ)の長けくも嬉しかるべき
2866
人妻に言ふは誰(た)が言(こと)さ衣(ごろも)のこの紐(ひも)解けと言ふは誰が言
2867
かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを
| 意味 |
〈2864〉
あの方がお越しになるのを今か今かとお待ちしているうちに、どんどん夜が更けてきて、つい溜息をついてしまった。
〈2865〉
手枕を交わして寝るいとしい子がいてくれたなら、夜が長いのも、かえって嬉しいことだろうに。
〈2866〉
人妻である私に言い寄るのは誰のおことば? 下着の紐を解いて寝ようと言い寄るのは誰のおことば?
〈2867〉
これほど恋しくなるのだと分かっていたなら、あの夜はもっとゆっくりしていればよかったのに。
| 鑑賞 |
作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首で、先に『人麻呂歌集』出典の歌が並び、それに続いて作者不明の歌を同じ部を立てて集めたもの。「正述心緒」歌は「寄物陳思(物に寄せて思いを述ぶる)」歌に対応する、相聞に属する歌の、表現形式による下位分類であり、巻第11・12にのみ見られます。一説には柿本人麻呂の考案かとも言われます。
2864は、夫の訪れを待つ気分が失望に変わってしまったことを嘆く妻の歌で、そのまま分かる平明な歌です。「今か今かと」は、もう来るかもう来るかと、もどかしく待つさま。この畳み掛けるようなリフレインが、耳を澄ませ、足音を待つ作者の落ち着かない心の鼓動を鮮やかに描写しています。「更けゆけば」の原文「夜更深去者」で、ヨノフケヌレバと訓むものもあります。「待ち居る」は、ただ座って待っている状態を指します。時間が経つのがこれほどまでに遅く、かつ残酷に早く感じられる矛盾した心理が伝わります。やがて訪れる「今夜はもう来ないのではないか」という予感が、深い嘆き(溜息)へと繋がっていきます。特段の比喩も技巧もない歌ですが、その直球な表現こそが、1300年経った現代の私たちにも「待ち人へのもどかしさ」という普遍的な痛みを共感させる力を持っています。
2865の「玉釧」は、玉を付けてある腕輪で、手に巻くところから「まき」にかかる枕詞。しかし単なる修飾語ではなく、「玉」の持つ美しさや、腕を絡め合う親密な情景を視覚的に浮かび上がらせる効果があります。腕輪が触れ合う音や冷たさ、その中にある肌の温もりを暗示しています。「まき寝る」は、腕に抱いて寝る。「長けく」は「長し」のク語法で名詞形。「嬉しかるべき」の「べき」は、上の「こそ」の係り結びで連体形。一人寝をしている男の嘆きの歌であり、季節が秋であることを直接的には述べていませんが、伝統的に「夜が長い」ことを意識するのは秋の風情です。しんしんと冷え込む秋の夜、独り布団の中で愛する人を想う寂しさが伝わります。
2866の「誰が言」は、どういう人の言葉なのか、との詰問。「さ衣」の「さ」は、接頭語。「紐」は、下着の紐。紐を結び合うのは、夫婦や恋人同士の愛の行為であり、「紐解け」は、共寝をしようという露骨な誘いかけになります。人妻である自分への夫以外の男からの誘いを拒みつつ、からかっている歌とされますが、それとも「嫌よ嫌よも好きのうち」でありましょうか。人妻とはいえ、夫婦同棲していず、その関係も秘密だったため、このように他の男から求められることはよくあったものとみられます。「言ふは誰が言」の第2句と第5句の繰り返しに強い口調が感じられますが、一方では民謡的であることから、宴などの場で演じられた作かもしれないとの見方があります。
2867の「かくばかり」は、これほどまでに。「知らませば・・・あらましものを」の「ませば・・・まし」は反実仮想で、もし~だったら・・・だろうに、の意。「ゆたに」は、ゆっくりと、心ゆくまで。「ものを」は、逆接の終助詞で「~のに」の意。初めて、あるいは久々に関係を結んだばかりの女と別れた後の男の歌で、人目を忍ぶがためにそそくさと帰ってきてしまったようで、そのことを後悔しています。冒頭の「かくばかり」という言葉には、自分でも予想だにしなかったほどの恋心の深さが表れています。一夜を共にしたことで、かえって思いが募り、制御不能なほどに苦しくなってしまった「事後の情熱」というものがこの五文字に凝縮されています。

【PR】
正述心緒
『万葉集』の作歌方法に関する分類用語の一つとして、寄物陳思(きぶつちんし)と並び称せられるのが正述心緒(せいじゅつしんちょ)。「正(ただ)に心の緒(を)を述ぶ」というのであり、ほとんど心情を表す叙述だけで一首を構成する作歌方法のことである。
夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば(大伴家持 4・741)
この一首は、夢で逢うのはつらいもの、目覚めて手探りしても相手の手にも触れないのだから、の意。恋する者の、夢と現実の間にさまよう心が巧みに表現された歌である。中国小説『遊仙窟』の「少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘を見る。驚き覚めて之を攪(と)れば忽然にして手を空しくす」の文言に刺激されての作歌と指摘されているが、ここではそれが十分に消化されている。
恋の心を、このように心情にかかわることばだけで言い表すというのは、とかくその叙述が平板になりがちである。叙述が詩としての起伏をもつためには、それなりの工夫が必要であろう。ここでは、「夢」→「おどろきて(目覚めて、の意)」と時が経過したところでの、「掻き探れども手にも触れねば」という感覚に、その巧みな工夫がみられよう。この「正述心緒」は、他方の「寄物陳思」にくらべて、より新しい作歌方法であった。後期万葉の、坂上郎女や大伴家持あたりのところで、とりわけ盛んになる。表現の平板さを克服するためであろう、たとえば「恋に死ぬ」「人言(噂)に自滅する」「せめて夢のなかでなりと逢う」などの大袈裟な誇張を伴う場合も多いが、しかしその観念的な表現のうちに、人間の普遍的な心のかたちをとらえている歌が少なくない。
~『万葉集ハンドブック』/三省堂から引用
|
古典に親しむ
万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |