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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-2883~2887

訓読

2883
外目(よそめ)にも君が姿(すがた)を見てばこそ我(あ)が恋やまめ命(いのち)死なずは
[一には『命に向ふ我が恋やまめ』といふ ]
2884
恋ひつつも今日(けふ)はあらめど玉櫛笥(たまくしげ)明けなむ明日(あす)をいかに暮らさむ
2885
さ夜(よ)更けて妹(いも)を思ひ出(い)で敷(しき)たへの枕(まくら)もそよに嘆きつるかも
2886
人言(ひとごと)はまこと言痛(こちた)くなりぬともそこに障(さは)らむ我(わ)れにあらなくに
2887
立ちて居(ゐ)てたどきも知らず我(あ)が心(こころ)天(あま)つ空なり地(つち)は踏めども

意味

〈2883〉
 遠目にもあなたのお姿を見ることができたなら、私の恋心は止むでしょう、命が絶えずにいたならば。(命がけの私の恋心もおさまるでしょう)
〈2884〉
 恋い焦がれつつも今日は何とか過ごせましょうが、一夜明けた明日はどうやって暮らしたらよいのでしょうか。
〈2885〉
 夜ふけにあの子を思い出して眠れず、枕がきしむほどに身もだえして嘆いている。
〈2886〉
 人の噂は確かにうるさくなってきたが、そんなことに妨げられる私ではないのに。
〈2887〉
 落ち着かなくて立ったりすわったりして、どうしてよいか分からず、私の心はまるで空にあるようです。地を踏んではいるのですけど。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2883の「外目」は、親しく対面するのではなく、遠くから姿を見かけたり、物陰からそっと見たりすること。「君が姿を見てばこそ」の「姿」の原文「光儀」で『文選』や『遊仙窟』などに見える、容光儀態の意の語。「儀」は立派な様子。「見てばこそ」も「こそ」は、強意の係助詞。「我が恋やまめ」の「め」は「こそ」の結びで已然形。わが恋は止もう。「命死なずは」は、命が絶えずにいたならば。「は」は仮定条件を示す接続助詞バで、打消の助動詞ズに続くときは清音になります。夫に疎遠にされている女の歌とされます。

 
2884の「今日はあらめど」は、今日はなんとか過ごせるだろうが。今日一日を乗り切るだけで精一杯だという切迫したニュアンスがあります。「玉櫛笥」は、蓋を開けることから「明け」にかかる枕詞。「明けなむ明日を」は、明けていくだろう明日を。「いかに暮らさむ」は、どのようにして暮らしていけばよいのか。逢えないことが分かっている明日を、また一日無為に暮らす(時間を過ごす)ことの苦痛を歌っています。これも夫に疎遠にされている女の訴えの歌で、類歌に「恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ」(巻第10-1914)があります。

 
2885の「さ夜」の「さ」は接頭語で、夜の静けさや深まりを強調します。「妹を思ひ出で」の原文「妹乎念出」で、イモヲオモヒデと訓むものもあります。オモヒイデと訓むのは、イの単独母音があれば字余りにすべきで、窮屈なオモヒデよりよいとの考えによるようです。「敷たへの」は「枕」の枕詞。「枕もそよに」の「そよ」は、物が触れ合う音。溜息をつき、身悶えした際に、枕と髪や衣が擦れて「そよそよ」と音がしたという状態。そうした自分自身の動作や息が音として聞こえてしまうほどの極限の静寂と孤独を浮き彫りにしています。男の歌で、夜更けに目を覚まし、愛しい妻を思って嘆息している歌です。

 
2886の「人言」は、人の噂。「言痛く」は、うるさく、わずらわしく。単に数が多いだけでなく、それが「痛い」と感じるほど執拗で、煩わしいことを指します。「そこに障らむ」の「そこ」は、上3句の内容のことで、そんな噂ごときに妨げられるであろうところの。「我れにあらなくに」の「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形。「そんなヤワな自分ではない」という強い拒絶と自負が込められており、男が女に、将来を誓う心をもって贈った歌とされます。

 
2887の「立ちて居て」は、立ったり座ったりして。2881番でも使われたこのフレーズは、動作が定まらない、落ち着きを欠いた状態を強調します。「たどき」は、手段、手がかり。「空なり」は、ソラニアリの約。現代で言うところの「心ここにあらず」「上の空」の究極形で、思いが高じすぎて、魂が体から抜け出し、現実世界を浮遊しているような感覚のことを言っています。「地は踏めども」は、地を踏んではいるけれど。この結びが現代的且つ鋭い表現で、体はたしかに地面を踏んでいるという物理的な実感があるからこそ、逆に心が空にあるという異常性が際立ちます。上2句も下3句も、それぞれ恋の歌の慣用句となっているもので、それら2つを繋ぎ合わせて一首としています。
 


戸籍制度

 戸籍の作成は、古くは大化2年(646年)から白雉3年(652年)のころに始められたといいますが、もっともこれは確実ではなく、確かなものとしては、天智天皇9年(670年)のそれが最初です。一人ひとりを区別するため、目の下のほくろの数まで記載されていたといいます。当時は6年ごとに新しい戸籍を作って、中央政府に提出するよう命じられました。その目的は、これによって郷(ごう)や里の制度を整え、課税制度を確定させるものでした。郷とは郡の下の単位で、三里程度を一郷とし、一里は50戸をもって編成しますから、今日でいう村が郷、字(あざ)が里に当たりますが、その大きさは多少違っていました。というのは、同じ戸でも郷戸と房戸とがあり、一戸の郷戸の戸主のもとに何戸かの房戸が付属していたため、50戸といっても50軒の家屋があったわけではありません。そして、50戸の責任者が里長、さらに三里全体の責任者が郷長とよばれ、家々が組織化されました。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。