| 訓読 |
2893
朝(あした)去(ゆ)きて夕(ゆふへ)は来ます君ゆゑにゆゆしくも吾(あ)は歎(なげ)きつるかも
2894
聞きしより物を思へば我が胸は破(わ)れて砕(くだ)けて利心(とごころ)もなし
2895
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み我妹子(わぎもこ)に去(い)にし月よりいまだ逢はぬかも
2896
うたがたも言ひつつもあるか我(わ)れならば地(つち)には落ちず空に消(け)なまし
2897
いかならむ日の時にかも我妹子(わぎもこ)が裳(も)引きの姿(すがた)朝に日(け)に見む
| 意味 |
〈2893〉
朝はお帰りになっても、夕方にはまたおいでになるあなたであるのに、不吉なほどに私は嘆いています、待ちきれないのです。
〈2894〉
噂に聞いて以来、その人に恋して物思いをしていますので、私の胸は破れて砕けて、理性で判断できる心もありません。
〈2895〉
人の噂が激しくうるさいので、あの子に、先月以来いまだ逢いに行けずにいます。
〈2896〉
何だってそんなにむきになって言いたてるのか。私なら地面に落ちて名を汚すことなく、空に消えるよ。
〈2897〉
いったいいつの日になったら、あの子が裳裾を引いて歩く姿を、朝も昼も絶えず見られるようになるのだろうか。
| 鑑賞 |
作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2893の「朝去きて」の原文「朝去而」で、アシタイニテと訓むものもあります。単独母音イを含む字余り句としてこちらがよいとする考え方です。「夕は来ます」の「来ます」は「来る」の敬語で、通い婚であることを示しています。夕に来て朝に去くと言わないのは、女が男の去った昼の時間帯に歌っているからです。「君ゆゑに」は、あなたであるにもかかわらず、あなたなのに。「ゆゆし」は、忌まわしい、恐れ多い。「嘆きつるかも」の「かも」は詠嘆の助詞で、嘆いてしまったことだなあ。昼に男を思うのは禁忌とされたことからこのように言っています。しかし、このように歌えば禁忌を犯した災いから救われる、これが歌の呪力です。普通に考えれば、毎晩来てくれるなら幸せなはずです。しかし、万葉人の感覚では、毎朝去っていく背中を見送り、夕方に本当に来てくれるか確証がないまま待つ時間は、身を削るような不安を伴いました。
また、「ゆゆしく」という言葉には、この恋が公にできない秘密のものであったり、周囲の目を気にする必要があるような危うい関係であったりすることを示唆しています。ただ、違う解釈もあって、夫を送り出す時にひどく嘆いたことを悔いているとする見方もあります。たとえば、もう二度と逢えないかのようなため息をついたことを縁起でもないと悔いている、のように。
2894の「聞きしより」は、相手の噂を聞いてから、の意。ここの相手は、愛しい人とか恋人というのではなく、まだ見ぬ人のこと。『万葉集』においては、「聞く」は非常に重要であり、人づてに聞く噂や、相手の評判が恋の火種になることが多く、ここではその情報が衝撃の引き金になっています。「我が胸は破れて砕けて」は、心が千々に乱れることを誇張して言ったもの。「利心もなし」の「利心」は、鋭く働く心、すなわち正常な判断力、冷静な心のこと。
「破れて砕けて」という畳み掛けるような表現は、『万葉集』の中でも珍しいほど激越です。心という目に見えないものが、まるで陶器や鏡が粉々になるかのように砕け散る様子を詠むことで、作者の絶望が単なる悲しみを超えた、パニックに近い状態であることを伝えています。窪田空穂は、「求婚の心をもって男の女に贈ったものである。奈良京の知識人の歌で、身分ある人であり、女もその階級の者であったろう。見ぬ恋にあこがれてのもので、その点、後の平安朝の貴族と異ならない」と述べています。なお、この歌の「破れて砕けて」を本歌取りとしたのが、鎌倉幕府3代将軍・源実朝の「大海の磯もとどろに寄する波われてくだけて裂けて散るかも」の有名な歌です。実朝は、藤原定家から『万葉集』を贈られ、和歌の指導を受けて作歌に励みました。といっても京と鎌倉に離れていましたから、今でいう通信教育による師弟関係でした。そして、上掲の歌のほかに実朝が参考にしたとされるのが次の2首の歌です。
巻4-600
「伊勢の海の磯もとどろに寄する波 畏(かしこ)き人に恋ひわたるかも」(笠郎女)
巻7-1239
「大海(おほうみ)の磯もと揺り立つ波の寄せむと思へる浜の清けく」(作者未詳)
2895の「人言」は、他人の噂、世間の評判。「繁み」は「繁し」のミ語法で、〜が激しいので、〜が多いので、という理由を表す語。「言痛み」は「言痛し」のミ語法で、わずらわしいので。「人言を繁み言痛み」は慣用句となっており、集中に4例見られます。この畳みかけるような表現からは、単に噂があるという程度ではなく、四方八方から責め立てられるような息苦しさが伝わってきます。「去にし月」は、過ぎ去った月、すなわち先月。去にし月(先月)から逢っていないという事実は、現代の感覚以上に長く感じられたはずです。連絡手段が限られていた当時、一ヶ月逢えないことは、相手の心変わりや体調への不安、そして何より自分自身の情熱のやり場を失うことを意味します。
2896の「うたがたも」は語義未詳ながら、いちずに、むやみにの意ではないかとされます。「うたかた(泡沫)」の転だとして、ほんの少しの間、かりそめにも、の意とする説もあります。「言ひつつもあるか」は、言い続けていることよ。「あるか」には、相手の態度に対する驚きや、少し突き放したようなニュアンスが含まれます。「地に落つ」は、名を汚すこと。「消なまし」の「まし」は希望・反実仮想の助動詞で、消えてしまいたいものだ(消えてしまうだろうに)。これだけでは分かりにくい歌ですが、女から「二人の関係が噂になって、名を汚しそうだ」のように言ってきたのに対する返歌と見られています。
2897の「いかならむ日の時にかも」の「かも」は疑問で、どういう日のどういう時にか。「裳引きの姿」は、女性が裳の裾を長く引いて歩む姿のことで、優美で魅力的なものとして言っています。「朝に日に」は「常に」ということを具象的に言ったもので、同棲することを意味しています。日をケと訓む場合は複数の日を表します。妻との同棲の日を心待ちに思う男の歌で、その視点は非常に穏やかで現実的であり、噂がどうこう、死ぬの生きるのという激動を乗り越えた先にある、愛する人が目の前を静かに歩いているという何気ない日常。それこそが、作者にとっての最終的な救いであり、到達点であることが読み取れます。また、結びの「見む」にかかる「かも」という助詞には、確証のない未来への不安と、それを待ち焦がれる切実な溜息が混じり合っています。まだ手に入っていない、しかし必ず手に入れたい光景を夢想する、「待機」の美学がここにあります。国文学者の小野寛は、「綿々たる思慕の情が上品に優美に表現されている」と評しています。

相聞歌の表現方法
『万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。
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