| 訓読 |
2923
ただ今日(けふ)も君には逢はめど人言(ひとごと)を繁(しげ)み逢はずて恋ひわたるかも
2924
世の中に恋(こひ)繁(しげ)けむと思はねば君が手本(たもと)をまかぬ夜(よ)もありき
2925
みどり子のためこそ乳母(おも)は求むと言へ乳(ち)飲めや君が乳母(おも)求むらむ
2926
悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母(おも)に行かましものを
| 意味 |
〈2923〉
今日すぐにでもあなたにお逢いしたいと思うけれど、人の噂がうるさいので、お逢いせずにいつまでも焦がれ続けていることです。
〈2924〉
この人の世に、恋の苦しみがこんなに募るものだとは思わなかったので、あなたと共寝をしない夜もあった。
〈2925〉
幼い子に乳をあたえるために乳母を求めるといいます。なのに、あなたは乳を飲むような幼児なのでしょうか。そうではないのに、私を乳母として求められるのですか。
〈2926〉
残念なことに私はもう老いてしまいました。もっと若ければあなたの求める乳母として参りますのに、それもできません。
| 鑑賞 |
作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。2923の「ただ」は「今日」を強調する副詞で、すぐに今日でも、の意。「逢はめど」は、逢いたいけれども。「逢おうと思えば逢えるのだけれど」という含みがあります。「人言を繁み」の「繁み」は「繁し」のミ語法で、人の噂がうるさいので。「恋ひわたるかも」の「かも」は詠嘆の終助詞で、恋い続けていることであるよ。物理的な距離があるのではなく、逢おうと思えば逢える距離にいる。それなのに、周囲の目を気にして自ら制約をかけている。その自制が、かえって「恋ひわたる(思い続ける)」という情熱を煮詰め、苦しみを増幅させています。
2924の「恋繁けむと」は、恋の苦しみがこんなに募るものだとは、恋というものがこんなに激しいものだとは。「思はねば」は、思わなかったので。「君が手本をまかぬ夜もありき」は、あなたと共寝をしない夜もあったことだ、の意。女が旅にある男を思う歌、あるいは故人を対象にした歌のようであり、恋の盛りにある時は気づかなかった「恋の恐ろしさ」を、失意の中で噛み締めているような趣があります。窪田空穂は、「死ということには直接触れていないが、『世の中に』『君』『夜もありき』などの語は、明らかに故人を対象としてのものである」と述べています。
2525・2526は2首連作で、年下の若い男の求愛を受けた女の歌とされます。2925の「みどり子」は、3歳くらいまでの幼児のこと。『大宝令』の戸令では、3歳以下を「緑(男は緑児、女は緑女)」とせよと規定されていました。「求むと言へ」は、求めると言うけれど。「言へ」は、上の「こそ」の係り結びで已然形。「乳飲めや」は「乳飲めばや」の意で、ここでの「や」は、単なる疑問ではなく反語(〜だろうか、いや〜ではない)として機能しています。「乳求むらむ」にかかり、「らむ」の連体形で結んでいます。乳を飲むから乳母を求めるのであろうか。
2926の「悔しくも」の「も」は詠嘆の助詞で、悔しいことに。「老いにけるかも」の「かも」も詠嘆で、上の「も」と呼応して詠嘆の意を強めています。「行かましものを」の「まし」は反実仮想で、「もし若かったならば」という仮説を補って解釈します。ここに男の歌はありませんが、巧みに男の求婚を断っているものです。乳飲み子と乳母というほどに年の差をつけたところが面白くあります。前の歌が「大人なのに乳母なんて探して・・・」という冷ややかな視線だったのに対し、この歌は、自分が年を取っていることを悔しがることで相手の男を立てているようでもあります。窪田空穂は、2925について、「歌としては、口頭語のような気やすさをもっているが、おのずから哀愁がある」と述べ、2926を「明らさまな嘆きと訴え」と述べています。ともあれ、実際にどれほど年が離れていたのか気になるところです。

みどり(緑)
古代の色は、基本的には光によって規定される二系統の色相、すなわち明(赤)―暗(黒)、顕(白)―漠(青)によって意識されていたとされる。とくに青は、光と色の漠とした未分化のさまを指しており、色としては黒と白の中間色、さらに言えば緑、藍から灰色までをも含む色だったとされる。そこでミドリだが、『名義抄』によると「緑」のみならず「翠」「紺」「碧」などの文字がミドリと付訓されている。これらは、すべて青の範疇に属している。いまも時折、緑(青緑)の交通信号が青信号と呼ばれることに疑問を抱く声を聞くが、古代の色相に照らして見れば何の不思議もないことになる。
ところが、ミドリにはもっと厄介な問題がある。ミドリはもともと色名ではなかったからである。辞書類にも、ミドリは新芽や若葉のつややかでみずみずしい状態の形容であり、そこからその色がミドリ(緑)と呼ばれるようになったと説明されている。
しかし、ミドリで注意されるのは、赤子をミドリコと呼んだ例があることである。その表記は「緑子」「緑児」「若子」「若児」などさまざまだが、仮名書きで「弥騰里児」とする例(巻第18-4122)もあり、これらの表記例がミドリコであることは動かない。赤子がミドリコであるのは、新芽や若芽の成長するさまをそこに重ねて理解したからであろう。「神代記」に「青人草(あおひとくさ)」という言葉が見える。漢語「蒼生」の訳語というが、そうではなく、「青々とした人である草」の意であろう。人はもともと土から萌え出る草として意識されていたのだという。赤子がミドリコとされることには、そうした「青人草」の初発の印象が投影されていた可能性もあるだろう。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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