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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-2947~2951

訓読

2947
思ふにし余りにしかば術(すべ)を無み我(われ)は言ひてき忌(い)むべきものを
2948
明日の日はその門(かど)行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまた著(しる)けむ
2949
うたて異(け)に心いぶせし事計(ことはか)りよくせ我(わ)が背子(せこ)逢へる時だに
2950
我妹子(わぎもこ)が夜戸出(よとで)の姿見てしより心(こころ)空(そら)なり地(つち)は踏めども
2951
海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し結びし紐(ひも)を解(と)かまく惜しも

意味

〈2947〉
 思いに堪えかねて、どうしようもなくて私は言ってしまいました。口にしてはならない相手の名を。
〈2948〉
 明日はあなたの門の前を通りましょうから、出て見てください。恋いやつれている姿がはっきり分かるでしょう。
〈2949〉
 ますますひどく、いつもと違ってうっとうしい気分です。あなた、何か心が晴れるように工夫してください、せめてこうして逢っている時くらいは。
〈2950〉
 いとしいあの子が、夜、戸を開けて外に出てくる姿を見てからというもの、心は上の空だ、土は踏んでいるけれども。
〈2951〉
 あの海石榴市の里の道のたくさん交わる辻で、あちこち歩き回り出逢ったあの人が、結んでくれた紐を解くのは、あまりに惜しいことだ。

鑑賞

 作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」5首。2947の「思ふにし余りにしかば」は、思いに堪えかねて、思案に余ったので。「思ふにし」の原文「念西」で、オモヒニシと訓むものもあります。「しかば」は、過去の已然形+接続助詞で「〜してしまったので」という強い原因を表します。「術を無み」の「無み」は「無し」のミ語法で、どうしようもないので。「忌むべきもの」は、言ってはならないことで、ここでは相手の名を言うこと。上代の人々にとって、名前は実体そのものであり、軽々しく恋人の名を口にすればその恋人に災難が及ぶかもしれない、と恐れていたのだといいます。冒頭の「思ふにし余りにしかば」の句は慣用されていたらしく、この2句を頭に置く類歌が少なくありません。なお、左注に、或る本の歌に曰はく、「門に出でて我がこい伏すを人見けむかも」。一に云ふ、「すべを無み出でてそ行きし家のあたり見に」。柿本朝臣人麻呂の歌集に云ふ、「鳰鳥のなづさひ来しを人見けむかも」との記載があります。

 
2948の「その門行かむ」の「む」は意志の助動詞で、あなたの門を通ろう。「恋ひたる姿」は、恋に苦しんでいる姿、恋にやつれた姿。「あまた」は、甚だ、たくさん。「著けむ」は、著しかろう、はっきりしていよう。男が女に贈った歌で、窪田空穂は、「女の身辺に妨害が起こって、男は逢えずに悩んでいるおりから、何らかの事情で、明日は女の門の道を通る都合になったので、悩みにやつれているわが姿を見よといってやったのである。心としては逢い難い悩みの訴えであるが、それとしては珍しい歌である」と述べています。

 
2949の「うたて異に」は、ますますひどくいつもと違って。「心いぶせし」は、気分が晴れない。原文「心欝悒」で、ココロオホホシ、ココロオボホシなどと訓むものもあります。「事計り」は、ここでは配慮、はからい。「よくせ」は、好くせよで、命令形。「逢へる時だに」の「だに」は、最小限の希望を表す副助詞。今夜逢った女はいつになくいらだっており、せめて今夜だけでも、うまく扱ってください、いい具合にしてください、工夫してくださいというようなことを言っており、甲斐性のない男の態度に憤慨して詠んだ歌なのか、伊藤博は、「集中、これほどきわどい歌はない」と言っています。

 
2950の「夜戸出の姿」は、夜に戸を開けて外に出てくる女の姿。「見てしより」の「てし」は、完了の助動詞「つ」と過去の助動詞「き」の連体形。単に見たのではなく、しっかりとその姿を目に焼き付けてしまったという決定的な出来事を指します。「心空なり」は、いわゆる心ここに在らずの状態。「地は踏めども」は、足は地を踏みしめて歩いてはいるのだけれど。「夜戸出の姿」というのがどういう状況下のことか分かりませんが、一説には男を待っている女の姿のことかといわれます。思いをかけている女の、大変ショッキングな場面に出くわした時の男の歌でしょうか。頭が真っ白になって心が上の空になったと言っています。それとも、単に自分の恋人の夜目の美しさを言っているのでしょうか。

 
2951の「海石榴市」は、椿を街路樹に植えた市(いち)の意で、奈良県桜井市金屋にあったとされます。『枕草子』にも「市はつば市・・・」とあるほどに、平安時代から明治の初めまで初瀬詣でや伊勢参りの旅人で賑わっていたといいます。なお、海石榴(つばき)は山茶花(さざんか)のことであるとも言われます。また、市は歌垣(かがい)が行われる所でもあり、この歌も歌垣を背景にしたものとされます。つまり、ここに集まった男女が、好む相手を見つけて乱交したわけです。できあがったカップルは他国や別の村の男女どうしであり、別れるときに相手が結んでくれた紐は、それぞれの血筋で独特の結び方があって、それを解くのが惜しいという気持ちを歌っています。「八十の」は、多くの。「衢」は、幾筋もの道が分かれる所。チ(道)マタ(股)の意。多くの人々が行き交う賑やかな「公」の場所を象徴しています。「立ち平し」は、平らにし。大勢の男女が地を踏みつけて平らにした、すなわち賑やかに歌垣が行われたことを意味します。「結びし」の「し」は、過去の助動詞。「解かまく」は「解かむ」のク語法で名詞形。解くだろうこと。解くのは、さらにほかの男と関係することを意味します。「惜しも」の「も」は詠嘆の助詞で、惜しいことよ。
 


いぶせし

 鬱々とした思いで心が晴れない状態をあらわす形容詞。イブセシのイブはイブカシのイブと同根、セシは「狭(せ)し」であろう。もともとは、古代の物忌みの際に味わう性的な良く欲求不満をともなう心の状態をあらわす言葉とされる。物忌みの期間中は、一切の男女関係は禁じられたから、そうした際に生ずる鬱積した気分をイブセシと呼んだ。イブセシ、またそのミ語法であるイブセミの用例は『万葉集』中に10例見られるが、その半数は大伴家持の作であり、とりわけ家持が好んだ言葉であることがわかる。

~『万葉語誌』から引用

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ミ語法

 「ミ語法」とは、形容詞の語幹に語尾「み」を接続した語形を用いる語法。その意味は、「を」を伴うものは「を」が主格を表わし、「み」が原因や理由を表わすと考えられています。現存する文献の用例の大部分は『万葉集』であり、 上代以前に広く用いられたと考えられています。 中古以降は、擬古的表現として和歌にわずかに用いられました。 

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。