| 訓読 |
2962
白栲(しろたへ)の袖(そで)離(か)れて寝(ぬ)るぬばたまの今夜(こよひ)は早(はや)も明けば明けなむ
2963
白栲(しろたへ)の手本(たもと)ゆたけく人の寝(ぬ)る味寐(うまい)は寝(ね)ずや恋ひわたりなむ
2964
かくのみにありける君を衣(きぬ)にあらば下にも着むと我(あ)が思へりける
2965
橡(つるはみ)の袷(あはせ)の衣(ころも)裏にせば我れ強(し)ひめやも君が来まさぬ
| 意味 |
〈2962〉
あの子の袖から離れ、一人寝なければならないこんな夜なんか、明けるならさっさと明けてしまえばよいのに。
〈2963〉
愛する人と手枕を交わして人並みにくつろいで寝ることができないで、この私はずっと恋い続けていくのだろうか。
〈2964〉
こんなに薄情な人だったのに、もしあの人が着物だったら、じかに着る肌着にしたいとさえ思っていたことですよ。
〈2965〉
橡の袷の着物を裏返すように反対の態度をとるなら、もう無理強いはしません。あなたのいらっしゃらないことよ。
| 鑑賞 |
作者未詳の「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」4首。2962の「白栲の」は「袖」の枕詞。「白栲」は、真っ白な布のこと。「栲」は、こうぞ類の樹皮からとった繊維、またそれで織った布をいいます。「袖離れて」は、恋人の袖を離れて。共寝をせず、離れていること。原文「袖不數而」で「袖(そで)数(な)めずて」と訓み、袖を連ねずしてと解するものもあります。「ぬばたまの」は「今夜」の枕詞。「早も明けば明けなむ」の「早も」は、早く。「なむ」は、強い願望を示す終助詞で、明けてしまうなら明けてほしい。独り寝の煩悶を詠んだものですが、類想の多い歌です。
2963の「白栲の」は、ここは「手本」の枕詞。「手本」は、手首あるいは袖口のあたり。一説には肩から肘にかけての部分とも。「ゆたけく」は、くつろいで。「人の寝る」は、自分以外の世の中の人々が謳歌しているという対比。「味寐」は、快い共寝、満ち足りた眠りの意。「恋ひわたりなむ」の「わたり」は、ずっと〜し続けるという時間の持続。「なむ」は、強い推量、あるいはそうなるであろうという確信。妻が無く、独り寝をしている男が、妻と共寝をしている世間の男たちの快い眠りを想像し、それと自身のさまとを比較して嘆いている歌です。窪田空穂が「妹という者に直接に触れず、他人の共寝のさまを羨むことによって暗示しているのは、そう呼ぶべき者がないからである」と言って、男の侘しさに駄目を押しています。
2964の「かくのみにありける君」は、こんなことだけであった君、こんなに薄情な人だったのに、の意。「ありける」は、相手の正体(薄情さ、不実さ)を、今になってようやく思い知らされたというニュアンスで、期待を裏切られたことへの落胆が込められています。「君を」は、君であるのに。「衣にあらば」の原文「衣尓有者」で、キヌナラバと訓むものもあります。「下にも」の「も」は詠嘆で「さえも」の意を込めています。「思へりける」の「ける」は詠嘆で、思っていたことだ。真実のない男に失望し、自分が愚かだったと嘆いている女の歌で、衣ならば下に着ようというのは、人目をはばかる気持と、肌身をはなさぬ愛撫の情がこもっていて、佐佐木信綱は「譬喩が適切でよい」と評しています。
2965の「橡」は、クヌギの木。どんぐりを煮た汁で衣を黒く染めていたもので、服制では、踐者の服色と定められていました。「袷の衣」は、裏地のついた衣。上2句は、衣に裏のある意で「裏」を導く序詞。「裏にせば」の解釈は、軽く思う、粗末に思う、異心を抱くなど諸説あります。「強ひめやも」の「や」は反語で、無理強いをするだろうか、いやしない。「君が来まさぬ」と尊んで言い、自身を「橡の袷の衣」と踐者に擬しているのは、身分の差を念頭に置いての表現とされます。「橡」という日常的な素材を使いながら、「裏返る」という言葉で相手の心変わりを鋭く突いています。窪田空穂は、「ある程度年をした女の、分別心をまじえていっているものである。嘆きを包んで、さりげなくいっているものではあるが、本心を偽ってのものではない」と述べています。

たもと(手本)
「手」と「本」の複合語で、手のもと、つまりは手首をいうのが原義。ただし、肩からひじまでの部分を指すという説もある。転じて、着物の袖口の部分も意味する。用例が歌に偏るので、基本的に歌語であったと思われる。なお、上代には、現代語の「袂(たもと)」にあたる着物の袖の部分を指す場合、「袖」という。
『万葉集』で最も多く歌われるのは、男女の共寝を意味する「手本を巻く(枕く)」という表現である。当時の男女は、互いの首にタモト(手首)を巻きつけて抱き寝をした。その状態を「手枕(たまくら)」という。
~『万葉語誌』から抜粋引用
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正述心緒
『万葉集』の作歌方法に関する分類用語の一つとして、寄物陳思(きぶつちんし)と並び称せられるのが正述心緒(せいじゅつしんちょ)。「正(ただ)に心の緒(を)を述ぶ」というのであり、ほとんど心情を表す叙述だけで一首を構成する作歌方法のことである。
夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば(大伴家持 4・741)
この一首は、夢で逢うのはつらいもの、目覚めて手探りしても相手の手にも触れないのだから、の意。恋する者の、夢と現実の間にさまよう心が巧みに表現された歌である。中国小説『遊仙窟』の「少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘を見る。驚き覚めて之を攪(と)れば忽然にして手を空しくす」の文言に刺激されての作歌と指摘されているが、ここではそれが十分に消化されている。
恋の心を、このように心情にかかわることばだけで言い表すというのは、とかくその叙述が平板になりがちである。叙述が詩としての起伏をもつためには、それなりの工夫が必要であろう。ここでは、「夢」→「おどろきて(目覚めて、の意)」と時が経過したところでの、「掻き探れども手にも触れねば」という感覚に、その巧みな工夫がみられよう。この「正述心緒」は、他方の「寄物陳思」にくらべて、より新しい作歌方法であった。後期万葉の、坂上郎女や大伴家持あたりのところで、とりわけ盛んになる。表現の平板さを克服するためであろう、たとえば「恋に死ぬ」「人言(噂)に自滅する」「せめて夢のなかでなりと逢う」などの大袈裟な誇張を伴う場合も多いが、しかしその観念的な表現のうちに、人間の普遍的な心のかたちをとらえている歌が少なくない。
~『万葉集ハンドブック』/三省堂から引用
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