| 訓読 |
2971
大君(おほきみ)の塩焼く海人(あま)の藤衣(ふぢごろも)なれはすれどもいやめづらしも
2972
赤絹(あかきぬ)の純裏(ひたうら)の衣(きぬ)長く欲(ほ)り我(あ)が思ふ君が見えぬころかも
2973
真玉(またま)つくをちこち兼(か)ねて結びつる我(わ)が下紐(したひも)の解くる日あらめや
2974
紫(むらさき)の帯(おび)の結びも解きもみずもとなや妹(いも)に恋ひわたりなむ
2975
高麗錦(こまにしき)紐(ひも)の結びも解き放(さ)けず斎(いは)ひて待てど験(しるし)なきかも
| 意味 |
〈2971〉
天皇の御料の塩を焼く海女が着ている藤衣、その衣が萎(な)れて古びているようにすっかり馴れ親しんではいるが、ますます目新しく可愛い。
〈2972〉
赤い絹の総裏の着物の裾が長いように、末長くありたいと思っているあの方が、なかなか来て下さらない頃であるよ。
〈2973〉
今も将来も変わらぬ心でいようと誓って結びあった、私の下紐が解ける日があるだろうか、ありはしない。
〈2974〉
紫染めの帯の結び目を解く機会もなく、ただわけもなくあの子に恋い焦がれ続けることになるのか。
〈2975〉
高麗錦の紐の結びも解かずに、わが身を慎んでお待ちしているけれども、その甲斐がありません。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、2971・2972は「衣」に寄せての歌。2971の「大君の塩焼く海人」は、天皇の御料の塩を焼く海人。契沖による『代匠記』には、越前国敦賀の海人だとあります。「藤衣」は、藤や葛の繊維で作った粗末な衣。上3句は、藤衣を着古してよれよれになることを「穢(な)る」というところから「なれ」を導く序詞。「なれ」は「馴れ」を掛けており、衣服として長年着古して、生地が柔らかく肌に馴染んでいる意と、夫婦として長年連れ添って、気心が知れ、新鮮味がないほど慣れ親しんでいる意を兼ねています。「いやめづらしも」の「いや」は、ますます。「めづらし」は、新鮮だ、素晴らしい、めったにないほど愛おしい。「も」は、詠嘆の助詞。
2972の「赤絹」は、赤く染めた絹織物。「純裏の衣」は、表地だけでなく、裏地まですべて同じ高級な生地(ここでは赤絹)を使った仕立てのこと。原文「純裏衣」で、ヒツラノコロモ、ヒタウラゴロモなどと訓むものもあります。上等の服であり、長く仕立ててあるところから、ここまでの2句が「長く」を導く序詞。男の衣服を捉えてのものと見られます。「長く欲り我が思ふ君が」は、二人の関係が長くあってほしいと私が思う君が、の意。「見えぬころかも」は、逢えない日々だなあ、という嘆き。裏地まで赤く染め上げられた衣のように、全身全霊が恋に染まりきっている。その情熱に見合う末永い時間を求めているのに、現実は「見えぬ(逢えない)」という、理想と現実のギャップが切ない歌となっています。
2973~2975は「紐」に寄せての歌3首。2973の「真玉つく」の「真」は美称で、玉を付ける緒と続け、「をちこち」の「を」にかかる枕詞。結んだ紐の尊さや美しさを強調する装飾的な役割も果たしています。「をちこち」は、遠くと近く、または将来と現在の意で、ここは後者。「兼ねて」は、わたって。「下紐」は、下着(肌着)を結ぶ紐のこと。「解くる日あらめや」の「や」は反語で、解ける日があるだろうか、いやない。女が男に貞節を誓った歌とされます。窪田空穂は、「夫婦約束を、下紐を結ぶことによってあらわしているのは、男と初めて逢って別れる時、男が女の下紐を結んだのに対していったとすれば、自然なものに聞こえる」と言っています。
2974の「紫の帯」は、紫色に染めた帯。作者(男)がしている帯とする見方がありますが、相手の女性の帯とする説が有力です。最上の色とされる紫の帯をしているのは高貴な女性であると考えられます。「結びも解きもみず」は、結んだり解いたりする機会さえない。つまり日常生活を共にしたり、夜を共に過ごしたりするような具体的な進展が一切ない現状を指します。「もとなや」の「もとな」は、わけもなく、どうしようもなく。「や」は、詠嘆を込めた疑問の助詞。「恋ひわたりなむ」の「わたり」は継続。「なむ」は推量。何らかの事情で逢い難くなっている男が、独り寝の床で妻を思っている心とされます。
2975の「高麗錦」は、高麗から渡来した錦で、高級品。集中に7例ある「高麗錦」は他のいずれも「紐」の枕詞になっていますが、ここは枕詞とせずに文字通りに解したほうがいいという意見があります。「解き放けず」は、紐の結び目を解き放さない、すなわち操を守ること。「斎ひて待てど」の「斎ふ」は、神事のために心身を清め、禁忌を守ること。この歌からは、結び合った下紐を解かないことが「斎ひて待つ」こと、すなわち男の身の無事を保証し、また自分のもとへ戻るようにさせる呪術の一つだったと知られます。「験なきかも」は、夫の訪れがなく、その効験、甲斐がないこと。この言葉には、自分を律してきた努力がすべて無に帰したという、虚無感と怒りが混じった溜息が凝縮されています。

作者未詳歌
『万葉集』に収められている歌の半数弱は作者未詳歌で、未詳と明記してあるもの、未詳とも書かれず歌のみ載っているものが2100首余りに及び、とくに多いのが巻7・巻10~14です。なぜこれほど多数の作者未詳歌が必要だったかについて、奈良時代の人々が歌を作るときの参考にする資料としたとする説があります。そのため類歌が多いのだといいます。
7世紀半ばに宮廷社会に誕生した和歌は、7世紀末に藤原京、8世紀初頭の平城京と、大規模な都が造営され、さらに国家機構が整備されるのに伴って、中・下級官人たちの間に広まっていきました。「作者未詳歌」といわれている作者名を欠く歌は、その大半がそうした階層の人たちの歌とみることができ、東歌と防人歌を除いて方言の歌がほとんどないことから、畿内圏のものであることがわかります。
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寄物陳思
『万葉集』の作歌方法に関する分類用語の一つに、寄物陳思(きぶつちんし)がある。「物に寄せて思ひを陳(の)ぶ」という意であり、具体的には自然の物象に託して恋の心情を表現しようとする歌のことである。表現のしくみからいえば、物象を表すことばと心情を表すことばとを有機的に対応させながら一首を構成する方法である。物象を表す序詞を取り込んで、それを心情を表す本旨につないでいく作歌方法も、その一つの典型とみられる。
夏の野の繁みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものそ(坂上郎女 8・1500)
「姫百合の」までの序詞の物象が、「知らえぬ恋は」以下の心情を表す本旨部分と対応しあっている。むせかえるような夏草の繁みの中にこっそりと可憐な彩りをみせている姫百合が、そのまま秘めた恋に苦衷をかみしめる心のはなやぎにつらなっている。物と心が対等の位置を占めながら、鮮明な詩情をかもし出すことになる。
寄物陳思の方法は、ひとり序詞に限ったことではなく、物と心の対応する表現機構一般に広げて考えてよい。
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く(額田王 4・488)
「君待つと我が恋ひ居れば」の心情のことばぐらいだけならば、ありきたりの言い方でしかない。しかし「我が宿のすだれ動かし秋の風吹く」という自然物象の風趣を取り込んでいるところに、歌の抒情性を純化させる個性的な斬新さがある。
このように物象を表すことばと心情を表すことばが互いに対応しあうように、一首を物と心で構成する方法が、『万葉集』の始まりから終わりまでを貫くもっとも伝統的な作歌方法であった。しかも、古く記紀歌謡の多くともつながっている。「寄物陳思」は、『万葉集』のもっとも伝統的で重要な作歌方法である。
~『万葉集ハンドブック』/三省堂から引用
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