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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-2990~2994

訓読

2990
娘子(をとめ)らが績(う)み麻(を)のたたり打ち麻(そ)懸(か)け績(う)む時なしに恋ひわたるかも
2991
たらちねの母が養(か)ふ蚕(こ)の繭隠(まよごも)りいぶせくもあるか妹(いも)に逢はずして
2992
玉たすき懸(か)けねば苦し懸けたれば継(つ)ぎて見まくの欲しき君かも
2993
紫のまだらの縵(かづら)花やかに今日(けふ)見し人に後(のち)恋ひむかも
2994
玉縵(たまかづら)懸(か)けぬ時なく恋ふれども何しか妹(いも)に逢ふ時もなき

意味

〈2990〉
 娘子らが麻紡ぎをするたたりに、打った麻を懸けて糸を績むように、倦(う)む時もなく恋い続けています。
〈2991〉
 母親が飼っている蚕(かいこ)が繭にこもっているように、あの子を閉じ込めているから、気持ちが晴れないことだ、あの子に逢えないので。
〈2992〉
 声をかけねば苦しくてたまらない。声をかけたらかけたで続けてお逢いしたくなるあなたです。
〈2993〉
 紫色にまだらに染めた縵(かずら)のように、花やかに美しいと今日見かけたあの人に、後になって恋い焦がれるだろうな。
〈2994〉
 心に懸けて思わない時はなく恋い焦がれているけれど、どうしてあの子に逢う時もないのだろうか。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、2990は「麻」に寄せての歌。「娘子ら」の「ら」は、接尾語。「績み麻」は績んだ麻糸で、「績む」とは麻を細く裂いてつむいで糸にすること。「たたり」は、台の上に棒を立てた道具で、そこに糸を巻きつけるもの。「打ち麻」は、麻の茎を打ってやわらかくした麻のこと。上3句は、そのようにして績むところから「績む」を導く序詞。「績む」を、飽きて嫌になることがない意の「倦む」に転じ、倦む時もなく恋い続けていることよと嘆いています。男の歌であり、この歌の魅力は、機織りの日常風景と激しい執着心の対比にあります。「たたり」に麻を懸けて休まず手を動かす乙女の姿は、当時の万葉人にとって極めて日常的な光景でした。しかし、その単調で終わりのない作業を、自分の止めようのない恋心に重ねることで、執念にも近い一途さが際立っています。

 
2991は「繭(まゆ)」に寄せての歌。「たらちねの」は「母」の枕詞。「蚕」は、カイコ。桑の葉で飼うので「桑子」とも。上3句は、蚕が繭にこもって身動きのできない状態から、鬱陶しい、心が晴れない意の「いぶせく」を導く序詞。「いぶせくもあるか」の「か」は詠嘆の終助詞で、気持が晴れないことよ。「妹に逢はずして」の原文「異母二不相而」で、イモニアハズテと訓むものもありますが、単独母音アがあるので字余りに訓むのがよいとされます。『柿本人麻呂歌集』所収の歌に「たらちねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも」(巻第11-2495)があり、本歌の元歌と見られています。

 この時代の母親の地位は高く、とくに娘の結婚に母親が口出しし、婿選びをするなど、結婚決定権は父親ではなく母親にあったようです。この歌のほかにも、母親が娘の交際相手を管理し、時には恋の障害となる歌が数多く見られます。ここでは、愛しい恋人に逢うことができない腹立たしい気持ちを、蚕が繭に籠る様子に喩えています。養蚕は古くから日本で行われており、『魏志倭人伝』にもその記述がみられます。古代中国の養蚕は皇后が務める重要な職掌とされ、日本でも女性が担っていました。そのため『万葉集』でも、蚕を飼うのは母となっています。

 
2992は「たすき」寄せての歌。「玉たすき」の「玉」は美称で、意味で「懸く」に掛かる枕詞。「懸く」は、ここは口に出して呼ぶ意とする説に従いましたが、心に懸ける意と解し、心に思うまいと努力するのは苦しい、心に思えば・・・と解する説もあります。「継ぎて」は、続いて。「見まくの欲しき君かも」の「見まく」は「見む」のク語法で名詞形。「かも」は詠嘆で、お逢いしたくなる君であるよ。女の歌とされ、一つ願いが叶えば、さらに次を望みたくなるという、恋の業(ごう)を自覚しています。

 2993・2994は「縵(かづら)」に寄せての歌。「縵」は、蔓性植物に季節の花や植物の枝、あるいは糸などを編んで頭に巻いた髪飾りとされます。
2993の「紫」は、ここでは染め色のこと。「まだらの縵」の原文「綵色之蘰」で、シミイロノカヅラ、シミノカヅラノなどと訓むものもあります。シミは「染(し)む」の名詞形。上2句は「花やかに」を導く譬喩式序詞。「花やかに」は、ぱっと華麗に、鮮明に、の意。視覚的に強い印象を受けたことを強調しています。「今日見し人に」は、今日見たばかりの人にという、初対面あるいは久しぶりの再会であることを示唆し、一目見たその瞬間に心を奪われた衝撃を伝えています。原文「今日見人尓」で、ケフミルヒトニと訓んで、今日見ている人に、と解するものもあります。「後恋ひむかも」は、後になって恋うることだろうか。男女どちらの歌とも取れます。

 
2994の「玉縵」の「玉」は美称、頭に懸ける意で「懸く」にかかる枕詞。「懸く」は、心に懸ける。「何しか」は、どうして〜なのか、という強い疑問と、やりきれない不満を表す言葉です。これだけ一生懸命に思っているのに、現実(逢えること)が伴わないことへの焦燥感がこの四文字に凝縮されています。原文「何加」で「いかにか」と訓むものもあります。男の歌です。
 


枕詞の「たらちねの」について

 『万葉集』に24例あり、すべて「母」にかかる枕詞ですが、その語義・かかり方とも未詳とされます。他に「たらちし」「たらちしの」「たらちしや」の例がありますが、1例ずつのため、「たらちねの」が元の形と見られています。表記は、「ち」に「乳」の字をあてたものが半数近くあるので、母に乳を意識し、それが垂れるのは母がその乳を子にたっぷり飲ませた証しだとして「垂乳ね」(ネは親しい人を呼ぶのに用いる語または尊称)とみる説が古来あるものの確証はありません。集中最も古い例は『柿本人麻呂歌集』所収の歌に「足常の母・・・」(巻第11-2495)とあり、タラツネノとも訓みます(上の24例には入れていません)。「足常」は、母を常に十分足りている人の意を表したものとして、「ち」を乳と見ることを否定する説もあります。

 中古になると「たらちねの」は「親」にかかるようになり(もっとも、実質的にその親は母親である場合が多い)、その一方で、「母」だけを意味する「たらちめ」という語と、「父」の意の「たらちを」という語もできました。

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