| 訓読 |
3010
佐保川(さほがは)の川波(かはなみ)立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも
3011
我妹子(わぎもこ)に衣(ころも)春日(かすが)の宜寸川(よしきがは)よしもあらぬか妹(いも)が目を見む
3012
との曇(ぐも)り雨(あめ)布留川(ふるかは)のさざれ波(なみ)間(ま)なくも君は思ほゆるかも
3013
我妹子(わぎもこ)や我(あ)を忘らすな石上(いそのかみ)袖布留川(そでふるかは)の絶えむと思へや
3014
三輪山(みわやま)の山下(やました)響(とよ)み行く水の水脈(みを)し絶えずは後(のち)も我が妻
| 意味 |
〈3010〉
佐保川に波が立たず静かなように、私もあなたに心静かに寄り添っていたい、明日の日も。
〈3011〉
愛しい人に着物を貸すではないが、その春日の吉城川で、愛しい人の顔を見る手掛かりがないだろうか。
〈3012〉
一面にかき曇って雨が降る、その布留川のさざ波のように、絶え間なくあなたのことを思っています。
〈3013〉
私のいとしい妻よ、私を忘れないでくれ。石上の、袖を振るという布留川の水のように、私の思いが絶えることなどあろうか。
〈3014〉
三輪山の山すそを響かせて流れる水、その水が絶えないかぎり、いついつまでもあなたは私の妻だ。
| 鑑賞 |
作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、いずれも「川」に寄せての歌。3010の「佐保川」は、奈良市・大和郡山市を流れる川。「川波立たず」という描写は、物理的な穏やかさだけでなく、二人の仲を邪魔する障壁や心の乱れがないという心理的・状況的な安定を象徴しています。上2句は「静けくも」を導く譬喩式序詞。「静けくも」は、形容詞「静けし」の連用形に詠嘆の助詞「も」。「たぐひて」は、寄り添って。「明日さへもがも」の「もがも」は、願望の終助詞。今日という日が素晴らしいからこそ、明日も同じように(あるいはそれ以上に)あなたと一緒にいたいという願いです。今日で終わってしまうかもしれないという、恋に伴う宿命的な不安が、この強い願望の裏側に潜んでいます。佐佐木信綱は、「灼熱の恋がおさまって、しみじみとした愛情の中に静かに満足している虔ましやかな女性の姿が浮んで来る」と述べ、窪田空穂は、「物静かに、柔らかく、品位をもっていっている歌」と評しています。
3011の「我妹子に衣」までの8音は、いとしい女に衣を「貸す」を転じて、同音の地名の「春日」を導く序詞。上3句は「宜寸川」の同音で「よし」を導く序詞で、序詞の中に序詞を含んでいます。「宜寸川」は、春日山に発し佐保川に合流する吉城川。「よしもあらぬか」の「よし」は、手立て、手がかり。「あらぬか」は、ないのか、あってくれよで、願望。「妹が目を見む」は、妹の顔を見よう。単に視界に入れるだけでなく、対面する、逢うことを意味します。
当時の貴族社会では、女性が人前に顔をさらすことは少なかったため、顔(目)を見ることは、親密な関係になることと同義でした。
3012の「との曇り」は、空一面が暗く曇る様子。「との曇り雨」の7音は「雨が降る」を転じて地名の「布留川」を導く序詞。「布留川」は天理市布留町付近を流れ、大和川に合流する川。上3句は、布留川のさざれ波(細かな波)が絶え間なく次から次へと打ち寄せてくる意から「間なくも」を導く序詞で、こちらも序詞の中に序詞を含んでいます。「間なくも」は、絶え間なく。「思ほゆるかも」の「思ほゆる」は、思われるという自発の形。「かも」は、詠嘆。「雨」と「降る(布留)」を掛けつつ、それを「波」に繋げて「絶え間ない想い」へと着地させる、非常に流麗な一首となっています。
3013の「我妹子や」の「や」は、呼びかけの意。「忘らすな」の「忘らす」は「忘る」の敬語。「石上」は、奈良県天理市の石上神宮西方一帯の地。「石上袖布留川の」は、石上布留川の水のようにで、「袖」は「袖振る」から「布留川」にかけた一語の序詞。川の名前の中に「愛情の仕草(袖を振る)」を読み込むことで、その場所が二人にとって特別な意味を持つことを示唆しています。そして4句全体が、絶えない意で「絶えむと思へや」を導く序詞。「絶えむと思へや」の「や」は反語で、絶えようと思おうか思いやしない。永遠の愛の誓いを力強く宣言した一首です。
3014の「三輪山の」の原文「神山之」で、大和の人々は三輪山に鎮座する大神(大物主神:おおものぬしのかみ)を特に崇拝していたことから「神山」をミワヤマと訓むものです。今も三輪神社を大神神社と書いておおみわ神社と言っています。「響み」は、響かせて。「行く水の」の原文「逝水之」は、「水」をカハと訓む例があることから、ユクカハノと訓むものもあります。「水脈」は、水の流れる筋。「し」は、強意の副助詞。「絶えずは」は、絶えないならば。「後も」は、将来も。「我が妻」と体言止めになっており、私の妻である(だろう)と叙述的に結ぶのではなく、名詞で言い切ることで、決定的な事実であることを強調しています。

『万葉集』の解読作業
『万葉集』は周知のようにもとはすべて漢字で書かれていました。これを万葉仮名というのは、漢字を仮名文字のように扱っているからです。すなわちこれは、漢字本来の意味を生かして書くのではなく(例外は多少ありましたが)、主として字音を活用して古代の大和言葉を表記したものでした。後年も似たようなことがくり返されています。すなわち近代日本におけるローマ字というものがそれです。ローマ字の場合は、借用したアルファベットそのものが音標文字でしたからきわめて便利でしたが、漢字の方は違います。これは元来一字一字意味をもっている文字ですから、これを音標文字として利用するというのは、それ自体実に大胆かつ創意ある工夫だったと言えると同時に、ひどくややこしい問題を後世に残すことになったのも当然でした。
すなわち、『万葉集』が一応成立してから2世紀もすると、これをどう読めば五七五七七になるのかがすでに分からないという大問題が生じたのです。
紀貫之らによって勅撰和歌集の第一『古今和歌集』が撰進され、醍醐天皇の奏覧に供されたのは延喜年間、西暦でいえば10世紀の初頭でしたが、この時でもすでに、8世紀後半に成立した『万葉集』はきわめて難読の、しかし神聖きわまる和歌集となっていました。時代は漢文学全盛の時代です。多くの貴族がすでに漢文本来の書き方、読み方に通じていた上、片仮名や平仮名も漢字をもとにして開発されていましたから、漢字そのものを日本式のやり方でいわば恣意的にねじ曲げ、それを大和言葉の和歌を書くのに利用した過去の人々の窮余の一策は、たぶん恐ろしく奇妙なものに見えたはずです。
にもかかわらず、そこには古代天皇制の最も劇的な確立期の詩的証言である作品群が大量に含まれていました。天皇をはじめとする尊貴の人々の作が、柿本人麻呂や山部赤人の作とともにたくさん含まれています。当然解読されねばなりません。こうして『万葉集』解読の作業が、村上天皇の勅命によって正式に開始されたのです。第二の勅撰和歌集である『後撰和歌集』の撰者5人(大中臣能宣伝・清原元輔・源順・紀時文・坂上望城)が後宮の昭陽舎(通称梨壺)において、新しい勅撰和歌集を撰進することと同時に命じられ、作業を進めることになったのが、『万葉集』に訓点をほどこすという難事業でした。天歴5年、西暦951年のことです。
紀時文は巨匠貫之の息子、源順は当代きっての漢学者でもあった才能抜群の文人歌人、清原元輔も傑出した歌人で代々教養豊かな文人の家の出でした。元輔の娘が清少納言です。
梨壺の五人とよばれたこの人々が、毎日後宮の一室に通って仕事をしたのですが、おそらく『万葉集』解読は溜息つき通しの難事業だったろうと想像されます。今日にいたってもなお訓の定まらない歌がたくさんあるということからでも、それは分かります。
しかし、この事業がきっかけで、『万葉集』は古代の闇の中から徐々に後世の光の中へ蘇ったのです。それの先鞭をつけたのが村上天皇の勅命だったということは、朝廷というものの文化的意味について考える時、無視できないものでした。
~大岡信著『私の万葉集』から引用
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古典に親しむ
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