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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-3030~3034

訓読

3030
思ひ出(い)でてすべ無き時は天雲(あまくも)の奥処(おくか)も知らず恋ひつつぞ居(を)る
3031
天雲(あまぐも)のたゆたひやすき心あらば吾(あ)をな頼(たの)めそ待たば苦しも
3032
君があたり見つつも居(を)らむ生駒山(いこまやま)雲なたなびき雨は降るとも
3033
なかなかに何か知りけむ我が山に燃ゆる煙(けぶり)の外(よそ)に見ましを
3034
吾妹子(わぎもこ)に恋ひすべ無かり胸を熱み朝戸(あさと)開くれば見ゆる霧(きり)かも

意味

〈3030〉
 妻のことを思い出してどうしようもない時は、天雲のように、果てがどこか分からないように恋い続けている。
〈3031〉
 漂う雲のように揺れ動く心でいるなら、私に気を持たせるようなことはしないで下さい。待っているのは辛いから。
〈3032〉
 愛しい人が住んでいるのはあの辺りだと眺めながら待っていましょう。どうかあの生駒山に雲は懸かからないでほしい、雨が降っても。
〈3033〉
 なまじっか、何で私はあの人と知り合ってしまったのでしょうか。地元の山焼きの煙なら遠くから見ているだけでよかったのに。
〈3034〉
 愛しいあの子が恋しくてどうしようもなく胸が熱いので、苦しさのまま朝の戸を開けると、ああ、辺り一面に霧が立ち込めている。

鑑賞

 作者未詳の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」5首で、3030~3032は「雲」に寄せての歌。3030の「すべ無き時」は、どうしようもない時、手の打ちようがない時。「天雲の」は、空に広がる雲が果てなく続くところから「奥処も知らず」にかかる枕詞。「奥処」は、果て、奥まった所。どこが終わりなのか、どこまで続いているのか分からない、という茫漠とした不安と広がりを表しています。「恋ひつつぞ居る」は、ただじっと、逃れられない恋心の中に身を置いている様子。強調の「ぞ」と連体形の「居る」による係り結びとなっています。逢い難い妻を思う男の歌であり、伊藤博は「『天雲の奥処も知らず』の表現が、我が心の奥底に深い思いを沈めて、いつ晴れるとも知れぬ実感が迫ってくる」と評しています。

 
3031の「天雲の」は「たゆたひ」の比喩的枕詞。「たゆたひやすき」は、揺れ動きやすい、定まらない。「たゆたふ」は波や雲がゆらゆら動く様子を指し、ここでは相手の優柔不断さや浮気心を象徴しています。「吾をな頼めそ」の「な~そ」は、禁止の構文。「頼む」は、期待させる、あてにさせる、という意味。原文「吾乎莫慿」で、ワレヲナタノメと訓むものもあります。「待たば苦しも」の「も」は、詠嘆。原文「待者苦毛」で、マテバクルシモ、マツハクルシモなどと訓むものもあります。来るのを約束しながら、気が変わってしまったのか、来なかった男を恨む女の歌です。

 
3032の「君があたり」は、あなたのいる方向、あなたの家がある辺り。「見つつも居らむ」の「む」は意志の助動詞で、ずっと見続けよう。「生駒山」は、奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある標高642mの山で、生駒山地の主峰。「居らむ」は、じっと座っていよう。「雲なたなびき」の「な」は禁止で、「そ」を略しています。この歌と同類の歌が、『伊勢物語』の23段にあります。在原業平の訪れが絶えたのを悲しみ、河内の国の高安の女が詠んだ歌で、「君があたり見つつを居らむ生駒山雲な隠しそ雨は降るとも」というものです。あるいは本歌の作者も、河内に住んでいたのでしょうか。窪田空穂は、「雨が降ってもというのは無理である。男を思う気分がいわせる希望で、情痴に近いものである。それがこの歌の魅力になっている」と述べています。

 
3033は「煙」に寄せての歌。「なかなかに」は、下に疑問の表現を伴い、なまじっか、かえって、の意。「我が山」は、私が住んでいる所の山。しかし「我が山」という表現が何となく落ちつかないというので、「吾」は「春」の誤字ではないかとする見方もあるようです。「何か知りけむ」の「何か~けむ」は、どうして~ただろうか。「外に見ましを」の「まし」は反実仮想の助動詞で、無関係なものに見ていればよかったのに。男女どちらの歌とも取れ、恋しさの悩みから、関係したことを悔いている心の歌です。

 
3034は「霧」に寄せての歌。「恋ひすべ無かり」は、恋しくてどうしようもない。原文「恋為便名鴈」で、コヒスベナガリと訓むものもあります。「がり」とすれば、「悲しがる」「あさましがる」のように用い、そのように感じる・行動する意を表す語となります。「胸を熱み」は「胸熱し」の「~を~み」のミ語法の形。胸が熱いので。「見ゆる霧かも」の「かも」は、詠嘆の終助詞。目に見える霧であることよ。夜中続いた独り寝の嘆きが、朝、戸の外一面に霧となって立っていたという歌で、嘆きの長さと深さを、霧のさまに喩えています。あるいは、霧を、自分が吐いた嘆きの息かと見ているとの解釈もあります。
 


『万葉集』は国民歌集か?

 『万葉集』の時代は130年もの長きにわたり、しかも激動の時代であって、多様な歌が生まれました。収録歌数は4500余首にも及び、歌の作者も、天皇・皇后から貴族・下級官吏・農民や乞食人・遊芸人にもわたり、さらに防人の歌もあるところから、まさに「国民歌集」であり、その幅広さが万葉の歌をより多彩にし、その後の歌集に見られない多様性と混沌とした力を有しているとされてきました。

 しかしながら、こうした捉え方には現代の研究者は否定的であり、むしろ、神のふるまいである「遊び」を体現しようとする宮廷貴族の美意識の、「みやび」を中心に表現しようとした歌集であるとの考えが一般的になっています。この問題の研究者である東京大学の品田悦一教授によると、前掲のような捉え方の源流は明治時代の後半に著された文学史の文献にあり、それ以来まったく変わることなく受け継がれているといいます。ナショナリズムや『万葉集』を重視した歌人の集まりであるアララギ派などの言説が大きく関わっているといい、それ以前は、一般の人々にとって『万葉集』は縁もゆかりもない存在だったのです。したがって、品田教授は、『万葉集』は広く読まれたために国民歌集になったのではなく、逆にあらかじめ国民歌集という価値を与えられたから広く愛好され読まれるようになったのだと延べ、私たちに大いなる反省を促しています。

 『万葉集』の歌には、東歌(あずまうた)と防人歌を除けば、方言や俗語を含む歌がほとんどなく、形も整っているところから、貴族と役人およびその周辺の人々、いわゆる都人を中心に詠まれたことが窺えます。庶民の歌はほぼありません。また、天皇代ごとに歌を区分する編年式配列が用いられていることから、『万葉集』の原形は、歌による宮廷史であったとする見方もあります。東歌や防人歌が、地方の歌、庶民の歌として選ばれ、類を見ない歌群となってはいるものの、東歌については、その作者はおもに豪族層とされ、また、すべての歌が完全な短歌形式であり、音仮名表記で整理されたあとが窺えることや、方言が実態を直接に反映していないとみられるなど、中央側が何らかの手を加えて収録したものと見られています。また、東歌を集めた巻第14があえて独立しているのも、朝廷の威力が東国にまで及んでいることを示すためだったとされます。防人歌については、防人制度の円滑な運用に向けた参考資料とするため、防人たちの心情を伝える記録として収集されたようですが、こちらも東歌と同様の理由で、役人の手が加わった可能性が高いと見られています。

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