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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-3107~3110

訓読

3107
うつせみの人目(ひとめ)を繁(しげ)み逢はずして年の経(へ)ぬれば生けりともなし
3108
うつせみの人目(ひとめ)繁(しげ)くはぬばたまの夜(よる)の夢(いめ)にを継(つ)ぎて見えこそ
3109
ねもころに思ふ我妹(わぎも)を人言(ひとごと)の繁き(しげ)によりて淀(よど)む頃かも
3110
人言の繁くしあらば君も我(あ)れも絶えむと言ひて逢(あ)ひしものかも

意味

〈3107〉
 世間の人の目が激しいので、逢えないまま年が過ぎてしまい、苦しくて生きている心地もしない。
〈3108〉
 世間の人の目が激しくて逢えないというのなら、せめて毎夜の夢に姿を見せてください。
〈3109〉
 心からねんごろに思うあなたなのに、何しろ世間の噂が激しいものだから、逢わずにいるこの頃であるよ。
〈3110〉
 世間の口がうるさくなったら、あなたと私の仲はお終わりにしようなどと言って逢い始めたのでしょうか、そんなはずはありません。

鑑賞

 作者未詳の「問答歌(問いかけの歌とそれに答える歌によって構成される唱和形式の歌)」2組。3107は男の歌、3108はそれに返した女の歌。3107の「うつせみの」は「人」の枕詞。枕詞ではなく、この現世の人の目が多いことを言っているとする見方もあります。「繁み」は「繁し」のミ語法。「年の経ぬれば」は、何年も経ってしまったので。「生けりともなし」は、生きているとも言えない。心はすでに死んでいる、あるいは存在意義を失っているという強烈な告白です。3108の「人目繁くは」は、人目がうるさいならば。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。「夢にを」の「を」は間投助詞で、意味はありません。「継ぎて」は、続いて。「見えこそ」の「こそ」は、願望の助詞。ここも前の歌(3106)と同じく、「女のほうが落ちついていて、静かになだめているものである」と、窪田空穂は言っています。

 3109は男の歌、3110はそれに返した女の歌。
3109の「ねもころに」は、心を尽くして、心の底からの意。「我妹を」の「を」は、詠嘆・逆接。「人言の繁き」は、世間の噂がうるさいこと。「淀む頃かも」の「淀む」は、男女が逢わないこと、行き来が絶えること。「かも」は、詠嘆で、逢わずにいるこの頃であるよ。3110の「繁くしあらば」の「し」は、強意の副助詞。「君も我れも絶えむと言ひて」は、あなたも私も「(関係を)終わらせてしまいましょう」と言って。「逢ひしものかも」の「ものかも」は、反語の詠嘆表現。逢い始めたのか、そんなはずはない。男の弁解がましい態度を厳しくやりこめた歌であり、佐佐木信綱は「条理も明快であり、熱と力とに満ちている」と評しています。
 


うつせみ

 この世の人、現世の人、現世を意味する語。その語源は、ウツシオミ(現し臣」とされる。ウツシオミのウツシ(現し)は神の世界に対する人間世界の形容、オミ(臣)はキミ(君)に対する語で、神に従う存在をいう。このウツシオミがウツソミと縮まり、さらにウツセミに転じたものである。かつては「現身(うつしみ)」が語源と考えられたが、ウツセミの「ミ」は上代特殊仮名遣の甲類であり、乙類の「身」とは合わないため認められない。

 ウツセミは、現世において、人間を神に仕える存在と捉える観念に基づく語である。そのことは、「雄略記」に載る、語源となったウツシオミの語から確認できる。天皇が葛城山に百官を引き連れて登ると、向かいの山に自分たちと全く同じ装いで同じ行動をとる一行が現れた。立腹した天皇が誰何すると、相手は葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)だと名乗る。恐れ畏まった天皇が神に述べた一言が「恐(かしこ)し。我が大神。うつしおみに有れば、覚(さと)らず」である。これは天皇が神に不覚を詫びる発言であり、ウツシオミは幽界の神に対して、自らを顕界の臣下である人間と卑下した言葉となっている。 

~『万葉語誌』から引用

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