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巻第12(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第12-3115~3118

訓読

3115
息の緒(を)に我(あ)が息づきし妹(いも)すらを人妻なりと聞けば悲しも
3116
我(わ)が故(ゆゑ)にいたくなわびそ後(のち)つひに逢はじと言ひしこともあらなくに
3117
門(かど)立てて戸も閉(さ)したるを何処(いづく)ゆか妹(いも)が入(い)り来て夢(いめ)に見えつる
3118
門(かど)立てて戸は閉(さ)したれど盗人(ぬすびと)の穿(ほ)れる穴より入(い)りて見えけむ

意味

〈3115〉
 命のかぎり恋い焦がれて苦しく溜め息ついていたあなたなのに、人妻であったと聞くと、たまらなく悲しい。
〈3116〉
 私のためにそんなに嘆かないでください。これからずっと逢わないつもりだと言った覚えはありませんのに。
〈3117〉
 門を閉じて戸も閉めておいたのに、どこを通って彼女は入ってきて、夢に現れたのだろう。
〈3118〉
 門を閉じて戸も閉めてあったけれど、盗人があけた穴から入って行って、あなたの夢に見えたのでしょう。

鑑賞

 作者未詳の「問答歌(問いかけの歌とそれに答える歌によって構成される唱和形式の歌)」2組。3115が男の歌、3116がそれに返した女の歌。3115の「息の緒に」は、命のかぎりに、命懸けで。「息づく」は、苦しそうにため息をつく。「妹すらを」の「すらを」は、~なのに。「すら」は、意外なこと、当然の予測に反することが下に起こる意を示す助詞で、人妻であるはずがないのに、その女がすでに人妻だというのが分かったことを示します。「悲しも」は、悲しいことだ(ああ、悲しい)。強意の終助詞「も」が、心の底から漏れ出る深い嘆きを強調しています。

 
3116の「我が故に」は、私のせいで、私のために。「なわびそ」の「な~そ」は、懇願的な禁止。「わぶ」は、気落ちする、嘆く。「後つひに」は、この後最後まで、後々どこまでも。「逢はじ」は、逢わない。「言ひしこともあらなくに」「あらなく」は「あらず」のク語法で名詞形で、そのように言ったことなどありませんのに。女はそれまで人妻ということはいわず、男の求婚に対して生返事ばかりしていたのでしょう。人妻と分かってもなお、この男に気をもたせています。きっと悪い女です。

 3117は男の歌、3118はそれに返した女の歌。
3117の「門立てて」は、門を閉ざして。「戸も閉したるを」は、戸も閉ざしてあるのに。「を」は逆接の接続助詞で、~のに、と訳します。「いづくゆか」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。どこを通ってか、どこからか。古代の感覚では、夢に愛する人が現れるのは、相手の魂が自分の体から抜け出して、会いに来たと考えられていました。つまり、「どこから入ってきたのか」という問いは、「それほどまでに私を思って、魂を飛ばしてくれたのか」という、驚き混じりの深い感動を表しています。

 
3118の「戸は閉したれど」は、戸は閉めてあったというけれど。「盗人の穿れる穴」は、泥棒が(土壁などに)開けた穴。「見えけむ」の「けむ」は過去推量で、「きっとそうだったのでしょう」という、少しおどけた断定です。女の夢を見た男が、翌日に戯れて女に贈ったのに対し、女も戯れに答えています。ここの歌のやり取りは、中国の小説『游仙窟』に「今宵戸ヲ閉ザスコトナカレ。夢ノ裏ニ渠(キミ)ガ辺ニ向ハム」とあるのを踏まえているとされます。

 こうした滑稽趣味横溢の歌をはじめとする問答歌のかなりの部分は、男性知識人による、遊戯的側面を伴った創作であった可能性が高いと、詩人の
大岡信は言っています。「問答」という形式に着目することそのものが、きわめて創作的な心の動きを示していると言ってよい、と。
 


『遊仙窟』

 中国、初唐時代に、流行詩人の張鷟(ちょうさく)、字(あざな)は文成、によって書かれた恋愛伝奇小説。

 筋書は、作者と同名の「張文成」なる人物が、黄河上流の河源に使者となって行ったとき、神仙の岩窟に迷い込み、仙女の崔十娘(さいじゅうじょう)と兄嫁の王五嫂(おうごそう)の二人の戦争未亡人に一夜の歓待を受け、翌朝名残を惜しんで別れるというもの。その間に84首の贈答を主とする詩が挿入されている。

 本書は中国では早く散逸したが、日本には奈良時代に伝来し、『 万葉集』の、大伴家持が坂上大嬢に贈った歌のなかにその影響があり、山上憶良の『沈痾自哀文(ちんあじあいのぶん)』などにも引用されている。

 その他、『和漢朗詠集』『新撰朗詠集』『唐物語』『宝物集』などにも引用され、江戸時代の滑稽本や洒落本にも影響を与えた。

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古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。